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欲の恐ろしさを知り、明らめ、活用する。
たとえばなしですが、小さい子供がお父さんの書きかけの筆を見つけてオモチャがわりにしていたとします。
家じゅう塗りたくってサァ大変。
お母さんがお団子を焼いています。
醤油とみりん、だしの効いた秘伝のタレがいい香り。
そこへ筆で墨汁をぬりぬり。
あらあら、困りましたね。お団子がマッ黒クロスケです。
オシリぺちぺち。ぎゃわーん。もうしませーん。ひーん。
怒られて筆を取り上げられてしまいました。
「返してよう。返しておくれよう。」
「ダメです。こんな風に使うものではありません。」
さて、筆は悪いものでしょうか。
お団子にスミを付けたら悪いもんどす。
ですが、上手に用い得れば字も書けます。
無意味なものではありません。
欲だっておなじです。
無意味なものではありません。
無意味なものなどありません。
無意味な「使われ方」をされていることこそが無意味なのです。
税金だって無意味な使われ方をされればお金が泣きます。
汗水たらして働いておさめた人の苦労が泣きます。
欲は「火」にも喩えられます。
火は悪いものでしょうか。
いいえ。
今日私は参詣客がポイポイ捨てていく正月の松飾をお焚き上げしていました。
どういう訳かウチの寺は勝手にポイポイ捨てていくのです。
火が無ければお焚き上げは出来ません。
寒い時は暖かいです。
調理に用いれば便利なもんです。
火事になったら悪いものです。
近所の人は煙くてたまったものじゃありまへん。
お焚き上げにもマナーがあります。
一年間、願掛けをして守ってもらったお守りやお札。
それを家から近いからといってポイポイ捨てていく埼玉県人が多くて困っています。
q(*´Д`)p
しかも正月の松飾まで何故か捨てていく人がいます。お寺はゴミ捨て場ではありません。
これも彼らの欲です。自分の都合です。
皆さんも家に見知らぬ人がごみをポイポイ捨てて行ったら困りますよね。
欲という火は悪く用いると人に迷惑をかけるショーモナ人になってしまいます。
上手に用いれば世の中の人を救えたり、イイコトや人助けにもなります。
良いものを存続させたりすることもできます。
だから欲は無意味ものではなくより良く用いるべきものなのです。
その心を菩提心というのです。
自分の欲や心を良いエネルギーとなるように用いる。
鬼を描き仏描くも同じ筆 持つ人の心が問われるものなのです。
過ぎたるは身を滅ぼす
お釈迦様は、欲は無意味だと仰っているのではありません。
過ぎたる欲は身を滅ぼすと仰っているのだと思います。
お釈迦様はも生身の人間だったので、食欲や睡眠欲、性欲もあったでしょう。
それら全てを否定なさったわけではありません。
ある所にろうそく売りの親子がいまして、その日暮らしの稼ぎで暮らしておりましたが、息子はもっと贅沢な暮らしがしたかったようです。
ある日不思議な老人から、人の欲望が炎の大きさになって見える筒をもらい、それを利用して大変なお金持ちになりましたが、もっともっとと求めるあまり、自分の欲望の炎で全てを焼失してしまいます。
絶望の中で筒を通して親を見ると、誰よりも欲望の炎は小さかったのでした。それで息子は何かを覚ります。
小欲知足 少ない欲で足る事を知れば多くの事が丸く収まる気がいたします。
全ての「欲」が無意味であるわけではありません
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「あれしたい」、「これしたい」という全ての「欲」が無意味であるわけではありません。
欲で悪いのは、無明(根本的な無知)・煩悩による「欲」で、無明・煩悩に基づかない「欲」や、仏教の智慧や慈悲などに基づく「欲」、例えば、「菩提心」というものを筆頭として推奨されるものもあります。
問題は、簡単に申せば、自分の利己的なための「欲」はダメで、利他的なための「欲」ならば、善い欲となることもあり得るところとなります。
特に、後者の「欲」を利用するのが密教でもあります。
もちろん、利他的なためならば、その「欲」に基づいて何をしても良いのかとなれば、それも中身の慎重な吟味が必要となります。
川口英俊 合掌