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欲の無意味さを、例えなどを頂き、教えて頂きたいです。
なぜ、欲は無意味なのですか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

欲の恐ろしさを知り、明らめ、活用する。

たとえばなしですが、小さい子供がお父さんの書きかけの筆を見つけてオモチャがわりにしていたとします。
家じゅう塗りたくってサァ大変。
お母さんがお団子を焼いています。
醤油とみりん、だしの効いた秘伝のタレがいい香り。
そこへ筆で墨汁をぬりぬり。
あらあら、困りましたね。お団子がマッ黒クロスケです。
オシリぺちぺち。ぎゃわーん。もうしませーん。ひーん。
怒られて筆を取り上げられてしまいました。
「返してよう。返しておくれよう。」
「ダメです。こんな風に使うものではありません。」
さて、筆は悪いものでしょうか。
お団子にスミを付けたら悪いもんどす。
ですが、上手に用い得れば字も書けます。
無意味なものではありません。
欲だっておなじです。
無意味なものではありません。
無意味なものなどありません。
無意味な「使われ方」をされていることこそが無意味なのです。
税金だって無意味な使われ方をされればお金が泣きます。
汗水たらして働いておさめた人の苦労が泣きます。
欲は「火」にも喩えられます。
火は悪いものでしょうか。
いいえ。
今日私は参詣客がポイポイ捨てていく正月の松飾をお焚き上げしていました。
どういう訳かウチの寺は勝手にポイポイ捨てていくのです。
火が無ければお焚き上げは出来ません。
寒い時は暖かいです。
調理に用いれば便利なもんです。
火事になったら悪いものです。
近所の人は煙くてたまったものじゃありまへん。
お焚き上げにもマナーがあります。
一年間、願掛けをして守ってもらったお守りやお札。
それを家から近いからといってポイポイ捨てていく埼玉県人が多くて困っています。
q(*´Д`)p
しかも正月の松飾まで何故か捨てていく人がいます。お寺はゴミ捨て場ではありません。
これも彼らの欲です。自分の都合です。
皆さんも家に見知らぬ人がごみをポイポイ捨てて行ったら困りますよね。
欲という火は悪く用いると人に迷惑をかけるショーモナ人になってしまいます。
上手に用いれば世の中の人を救えたり、イイコトや人助けにもなります。
良いものを存続させたりすることもできます。
だから欲は無意味ものではなくより良く用いるべきものなのです。
その心を菩提心というのです。
自分の欲や心を良いエネルギーとなるように用いる。
鬼を描き仏描くも同じ筆 持つ人の心が問われるものなのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

過ぎたるは身を滅ぼす

お釈迦様は、欲は無意味だと仰っているのではありません。
過ぎたる欲は身を滅ぼすと仰っているのだと思います。

お釈迦様はも生身の人間だったので、食欲や睡眠欲、性欲もあったでしょう。
それら全てを否定なさったわけではありません。

ある所にろうそく売りの親子がいまして、その日暮らしの稼ぎで暮らしておりましたが、息子はもっと贅沢な暮らしがしたかったようです。
ある日不思議な老人から、人の欲望が炎の大きさになって見える筒をもらい、それを利用して大変なお金持ちになりましたが、もっともっとと求めるあまり、自分の欲望の炎で全てを焼失してしまいます。
絶望の中で筒を通して親を見ると、誰よりも欲望の炎は小さかったのでした。それで息子は何かを覚ります。

小欲知足 少ない欲で足る事を知れば多くの事が丸く収まる気がいたします。

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浄土真宗本願寺派 忠専寺 住職 同宗派 特別法務員 同宗派 布教使 大分県別府市在住

全ての「欲」が無意味であるわけではありません

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「あれしたい」、「これしたい」という全ての「欲」が無意味であるわけではありません。

欲で悪いのは、無明(根本的な無知)・煩悩による「欲」で、無明・煩悩に基づかない「欲」や、仏教の智慧や慈悲などに基づく「欲」、例えば、「菩提心」というものを筆頭として推奨されるものもあります。

問題は、簡単に申せば、自分の利己的なための「欲」はダメで、利他的なための「欲」ならば、善い欲となることもあり得るところとなります。

特に、後者の「欲」を利用するのが密教でもあります。

もちろん、利他的なためならば、その「欲」に基づいて何をしても良いのかとなれば、それも中身の慎重な吟味が必要となります。

川口英俊 合掌

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おきもち

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