それでも確かなものと信じたい
はじめまして。
初めて質問します、仏教を手がかりに日々自問自答するきっかけになった内容なので長いですが宜しくお願いします。
本来は仲の良かった同僚とある事がきっかけで、なかたがいしました。
自分かわいさでは決してないんですが今でも私が正しいと思っています。
具体的な事は話せませんが、かなり深刻な問題になり私が会社を去る決意を一度はしたほどです。
その間色々な葛藤があり、これ以上人(信頼していた人間)を嫌いになりたくない想いからの去る決意でした。
いったい自分が本当に正しいのか、どうあるべきなのか40歳過ぎて迷うような事があるとは思いませんでした。
自分の正しさを確かなものにしたくて、仏教ならあなたは間違っていないと、私の正しさを肯定してくれるだろうと求めましたが、学ぶにつれ仏教は道徳や正義を説く訳ではない事がわかりました。
道徳や正義は時代や国によって変化しえること、ならばなにを頼りに生きればいいのか?
親鸞聖人と唯円との問答で人を千人殺せばあなたの往生は間違いない…云々、唯円は当然断りますが、今あなたが人を殺さないのはあなたの心が正しいからではない、今おもうように殺す縁にないだけだと言うくだりがありますが、確かに考えさせられます、当然親鸞聖人は殺人を仕方がないと肯定している訳ではなく、誰でも条件が揃えば縁しだいで何をするか分からないのが人間なんだと、私にあなたも逆の立場に現実おかれたら本当にその正しさを全う出来ますか?それ以外の事も全て、何者にも影響されず常にあなたの正しさは永久不変なものですかと自問自答させられました。
社会的には善い悪いはありますが、仏教を通じて思い上がっていたんだなと気ずかされました、自分はどうあるべきなのか答えが欲しくて仏教に救いを求めましたが学ぶにつれ自問自答ばかりです。
質問が最後になりましたが、諸行無常・諸法無我、確かなものは何も無いと言いますが、5万年前の私達の先祖はまだ十分な知性と理性を持っていない時に死者に花を手向けた痕跡があるらしいです、この優しさは確かなことではないでしょうか。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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迷ってばかり
不惑とは名ばかりで、私も40過ぎてから迷う事ばかりです。
歎異抄を読まれたのですね。
仏教とは不思議なもので、学ぶに連れ自分が正しいという心が思いあがりであったと気付かされるものですよね。
道徳や正義との違いまでご理解されているようなので多くは語りませんが、残念ながら優しさというものも確かなものではありません。
親鸞聖人は「念仏こそが確かなものだ」と仰っています。
この言葉の意味の深淵を探してみて下さい。
質問者からのお礼
釋 智篤 様
回答ありがとうございます。
>優しさも確かなものではありません。
私の優しさは無条件ではないので確かなものではない事は仏教を通じて気ずかされました、だからこそ遠い祖先の行いに惹かれるのですが、私の中で美化しているんでしょうね、念仏について真摯に向き合ってみます。
ありがとうございました。
追記
先日初めて自発的に声に出して南無阿弥陀仏と数回唱えましたが、少し解った気がしました。
親鸞聖人の言葉のはしばしにグッとくるものがあり、親しみを持っていた割に大切な念仏を声に出して唱えたことがなく、理屈で解ろうとしてただけでした、うまく言えませんが理屈じゃ埋まらない部分がありますね。
これからも探し続けたいと思います。