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質問

世の中めちゃくちゃだと思うのですが、そんな中でどう生きていけばいいでしょうか?
何が嬉しいのかも、もうよく分かりません。
他を傷つけないように生きてきているつもりなのに、ネットが普及したりして、世の在り方は、勝手に変わっていってしまう。
無限に理論武装が続くし。
何を目的にすればいいのか、分からないのです。
どうすればいいですか。

心構え・生きる智慧
有り難し 55
回答 3

質問投稿日: 2019年1月14日 17:28

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。
回答僧

大慈

世の中にしゃしゃり出ない

色んな切り口があると思いますが、
『小さく生きる』ことだと思っています。

ハァーって息を吐きます。樹木はそのCO2を吸うことで生きています。でも、そのCO2は温室効果ガスです。そうした時に「他を傷つけないように」というのは、究極的には無理なんです。
それが私対木の範囲なら誰も傷付かないんです。でも全世界の話にしちゃうと、温室効果ガスガーを持ち出されてしまう余地が発生してしまうわけです。

それに悪人の割合が仮に1割だとしますと、5人組の範囲なら、まぁ悪人に出くわさないかなと言えるでしょう。でも10人組になると、そのうち1人は悪人がいそうだねという期待値になってしまうんですね。そうした時に、友達100人作りましょう…って、やっぱり無理があったんですよ。

じゃあ何故友達100人作れる人になりましょうと言われていたかと言うと、優秀なリーダーを育てて組織の競争力を高めるためだったんですよね。本当は幸せのためでは無かったんです。たとえ悪人が混じっていても組織を運営できる人材を育てようという話です。出典から見れば明らかなんです。
https://hasunoha.jp/questions/27993

ネットだって不特定多数と付き合うから不便なんです。本来は気の合う友達と将棋するくらいの範囲でいいんですよ。(仕事は別としてですよ。)
私はテレビニュースも視ていません。(豪雨災害の時にちょっと反省しました。程度の問題ですね。)

お前いつも「大きい自分」って言ってるじゃん!って突っ込まれそうですが、仏道の「大」って、「水平線の向こうまで海が続いていることは分かる。でも今実際に水平線の向こうがどうなっているかは分からない。」という当たり前のことなんです。決して水平線の向こう側に干渉しろということではないんです。でも現代社会は干渉しよう干渉しようとする。そこが苦の源泉になっているのでしょうね。

坐っているお釈迦さまの仏像を見てみましょう。視線を下に落としています。あれは坐禅や瞑想を習うと教わりますが、『あまりに多くの物事を見て心を乱さないよう視界を狭めている』のです。もっと手の届く範囲の、目の前の生活に集中して生きるといいんでないかなとお坊さんは思うのです。

補足『小さい親切』
https://hasunoha.jp/questions/3597
増やして申し訳ありません

8ヶ月前
回答僧

宗禅寺

和正

あまり世間のことは気にせずに・・・大切なのは自分です

初めましてm(__)m
お釈迦様の有名な言葉に「自灯明(じとうみょう)」という言葉があります。お釈迦様が弟子たちへの生涯最後の説法にて説いたお言葉です。「自分自身を拠り所としなさい」、ということです。
世の中にはめちゃくちゃな一面も当然あります。ある時には英雄として扱われた人が、ある時には罪人として裁かれるケースは歴史上にもたくさんあります。
今、我々が生きている社会は沢山の情報を一瞬で得ることができる社会です。ただ、その情報って本当に必要な情報なのかと言われると、あまりそうではないものも沢山ありますよね? 自分にとって本当に必要な情報だけ見るようにしたらいかがでしょうか? パソコンやスマホの画面の中の情報には「自分の人生への解答」は絶対にありません。最終的には自分自身で経験をしたことだけが、自分を救ってくれるのです。
他者を傷つけるという点に関しては、ある意味では傷つくのは当たり前のことではないでしょうか? お釈迦様は「因縁」を説かれました。我々がこの世に産まれて生きているのも、雨が降るのも、地震が起きるのも、全て因縁だと説かれました。突き詰めていくと、あらゆる存在には、存在する理由が必ずあるということです。この世のあらゆる存在は目に見えない糸で繋がっているということです。親子、兄弟、友達、カップル、赤の他人まで、お互いが繋がり合っているからこそ、お互いに傷つくこともあるでしょう。ただ傷つけ合うことがあるからこそ、お互いに喜びを分かち合うこともあるはずです。
これからどう生きていけばいいかということについては、人間は本当に窮地に立たされた時は、そのようなことを頭の中で考える暇もないほど、日々の生活に追われます。人生の目的の第一歩は、毎日腹八分まで食べれること、安心して眠れる寝床を得ること、安心して用を足せるトイレを得ること、毎日入れるお風呂を得ること。そして、それらを得るために働くことではないでしょうか? 勝手なこと申しましてすみませんm(__)m

7ヶ月前

そうですね…

拝読させて頂きました。
あなたがおっしゃるようにめちゃくちゃなことが世の中や世界にあふれています。
毎日流れてくる情報をみると本当に目を覆いたくなることがあまたあふれていますね。
罪もない方々が沢山傷つけられて殺されて残虐な行いが為されています。
目を覆うような信じがたい言語道断な言動や行為がネットを通して伝えられています。

本当に善とは何なのか?良いこととは何なのか?人として生きる道は何なのか?
を問いただされる思いを私達は日々突き付けられています。

明日は自分自身がスケープゴートとなって、犠牲となってつるし上げられて周りの家族も犠牲にされかねないとも思う時があります。
世の非道限りなしとも思います。

きっとお釈迦様の生きた時代であってもそのような非道や残虐行為な無限に繰り返されていたのでしょうね。
私達が想像する以上にひどい残忍な悪業はお釈迦様以前のはるか昔から現在まで連綿と繰り返されてきたのでしょう。

それらの無限のループのような悪業から解き放たれる道や教えが仏教であると私は思います。

改めて本当に人として生きることとは何なのか?ものごとをどう見て考えてとらえていくことが善いのか?そしてどう判断して行動していくことが善き道なのか?どうこの生を全うしていくことが善いのか?を考えさせられます。

一時的な感情や偏見に惑わされることなく等しくものごとのありようをとらえていけるようにとも思います。

とはいえ私達はどうしてもこの肉体や心が移ろいやすく感情的になってしまい、いつの間にか目が曇ってしまい等しくものごとをとらえて判断することができなくなってしまいます。

そのような儚い頼りない些細な存在である私達ではあるとも思います。

そのような時・自分であるからこそ仏様の教えが私達の寄る辺になってくると私は思います。
仏様の慈悲や智慧を信じて日々己を見つめなおし反省し、仏様に懺悔し心を改め日々精進していくことがこの迷い多き世を渡っていける寄る辺となると私は思います。

7ヶ月前

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