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過去の事でくよくよする

回答数回答 1
有り難し有り難し 56

一昨年、不安障害で3ケ月入院していて、今は自宅で療養しています。
退院してから、昔の頑張っていた生活と今の引きこもりの生活にギャップを感じ、やる気がなくなりました。自分なりに、色々今できることを模索しましたが、どうしても、昔のいいことや入院で看護婦さんにいじめられた事を思い出し、やる気ができません。どうかご指導下さい。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

過去も未来も「今の一念」 今の心(念)という名の鐘の響き

以下「そうか」と分かるまで脳に真実の事のありようを叩きこみましょう。
我が家ではテレビで録画されたジブリがエンドレス放映されます。
子供たちは同じものを何度も見返して毎回、今日という一日を棒に振っています。
ですが、毎回それを楽しんでいるのです。
私も昔、ああ、何度見直していたでしょうか、ブルース・リー。(# ゚Д゚)👊アチョー!!
しかも映画「死亡遊戯」の主演はほとんどブルースリーの代役さんだと知った時は世界がひっくり返りました。私は本人では無いものを本物だと思っていたのです。アチャー!
さて、過去を思い起こしているのは必ず今です。今であるはずです。
過去というものは本当はどこにもありません。
無いものをあるかの如くに錯覚し↺リピート再生してしまうのが人間の脳内HDDレコーダーです。うちの子らがTVで取ったジブリを何度も見返しているような姿です。
仮に過去にネットで悪く書き込みされても、それを見るのは毎回その時その場。今。
情報はもう真実ではありません。
今の事実は、今寒ければ寒い。暖かい部屋に入れば暖かいのです。事実。
あなたは過去に生きているのではない。
今日の今。その時その都度思い起こす自分の思いを相手に、毎回、今新たにその思いを煮詰め直していただけだったのかと気づくことです。
自分のやっていることの「本質」を知ればいいのです。
言葉で言うと「過去にとらわれて生きている」「過去が気になる」「過去に苦しめられている」という表現があるだけ・成り立つだけで、本当に自分がやっていることの内容は毎日、毎回「念を起こして」それを相手にしているというだけなのです。
的確で実効性のある解決方法をお伝えしますと、自分のやっていることの内容を知り、それを止めること。そして、相手にすべきことを思考の世界から、今日の新たな現実、目前のことをに焦点を合わせることです。
過去から自由になるには、こう思いましょう。
ああ、私は毎回その思いを起こしては今という時間を無駄に費やして過去という無い煮物を煮つめて鍋を焦がして病んでいたのか。しかも、鍋の中には何もなかった。
気付きを持ちましょう。過去の記憶は今の一念。中身も手ごたえも現実でもありません。そっくりに思い起こせるというだけ。実態はない。あたかもAmazonから送られてくる物がハコばっかり大きくて中身ほぼスッカラカンみたいなもんです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。ユニークなご指導ありがとうございました。

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