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『なぜ私だけが苦しむのか』

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これは私自身が生きる中で抱いた怒りや悲しみではなく、hasunohaで数々の質問を目にする中で生じた仏教への一般的な関心に基づくことを最初にお断りしておきます。

H.S.クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(齋藤武訳)を既にご存知かもしれません。この本は、私の理解する限りでは最後の章で次のような普遍的な問いを扱っています。

「なぜ、善良な人が(あるいは私が)不幸にみまわれたのか」
「私の苦しみが単なる不運であるなら、私が苦しんでいることになんの意味があるのか」
「正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとしたら、だれが宗教なんか必要とするだろうか」

諸行無常、諸法無我、一切皆苦。「それはわかっているけれど……」「死んだあとのことを今いわれても……」というのが、これまた雑な理解に基づく感想で申し訳ありませんが、仏教徒にとってもまた正直な反応ではないかと感じています。一例として、ターミナルケアの現場において、死後の世界に関する教義が死への恐怖を有意に和らげているとはいえなかったという話をどこかで耳にしたことがあります。

これらの問いに対して、皆さんは時に誰かの、時にご自身の問題としてどのようにお考えになるでしょうか。あるいは宗旨の違いにより、そもそも仏教ではこうした問い自体が前提から不適切かもしれません。そうであれば、仮に目の前の方がこのような疑問や怒り(たとえば病気について)を投げかけてきた時、その方に対してどのようなお話をされるでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

みっつ、お答えします。

まずひとつ。
『そもそも仏教ではこうした問い自体が前提から不適切かもしれません。』
そんなことはございません。
まさに仏教の扱うところ。これまで向き合ってきた歴史そのものだと思います。

ふたつ。
思うに、ご投稿の内容はユダヤ教的な問いにお見受けしますが
まさにユダヤ教、キリスト教もその問いに向き合ってきた歴史なのでしょう。
イエスは(キリスト教においては神の子といわれながら)最後、磔にされて絶望の言葉を発します。
『神よ、神。なぜ私を見捨てたのです。』
イエスはユダヤ教徒の自覚があったと思います。

普遍的な問いだと思います。
なぜ善いことをしても報われないのか。
どうして苦しまなければならないのか。
宗教を信じて正しいことをしても、神の子すらはりつけにされたではないか。

はっきり申し上げましょう。
神を信じても
仏を信じても
裏切られる可能性はありますよ、と。

そこを出発点にしなければならないのです。
でなければ宗教になりません。

極端な話、
宗教において偉大な方々は、仏祖も預言者もみな、絶望から出発したのです。
イエスも最期はすべてを委ねたのです。神にちょっとでも期待した自分をも捨てて。

仏教もそうです。
人間的な力みの延長で正しくあろうとしても善いことをしても
それは裏切られますよ。
人間のはからいを超えないといけませんよ、という難しいことをさらっといいます。
その意味で、無常とはどういうことか。
「期待して得たものも、移り変わっていきます。」
裏切られますよ、ということです。

無我とは何か。
「期待して得たものも、永遠不変の実体ではありません。」
裏切られますよ、ということです。

一切皆苦とは何か。
「我々は期待せずにはおれない生き物です。」
つまり、納得できないまんま生きるしかないんですよ、ということです。

三法印なんて、分かるけれど納得できるわけはないんです。
絶望から始まるくらいでないと、納得できない教理だと思います。

そこを出発し、どう生きるかは仏教、キリスト教の中にも様々なやり方に分かれていくわけです。

みっつ。
目の前の人に、どのようにお答えするかは問題ではありません。
ほかならぬその人が苦しんでいるのです。
その人は疑問や怒りを、私たちにではなく
自分自身に投げかけているのです。
その邪魔をしないようにするだけなんです。

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有り難し
おきもち

吉井浩文
Buddhism. knowing what it actually i...
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信だけではなく行がある

私は浄土宗に所属しております。
浄土宗は、南無阿弥陀仏と念仏していれば、臨終時に阿弥陀仏が迎えに来てくださり、極楽浄土に往生できるという教えです。
そこには、来世への希望、どんな悪人でも仏様は見捨てないという平等の思想など、「信」があります。
ただ、仏教は「信」や哲学・思想だけではなく、「行」があります。
浄土宗の場合、口で「南無阿弥陀仏」と称(とな)える口称念仏がメインの修行です。
一定リズムで長時間称(とな)えるときは、
「なぁむあぁみだぁぶなぁむあぁみだぁぶ」
とゆっくりの三拍子です。スピード上げると
「なむあみだぶなむあみだぶなむあみだぶなむあみだぶなむあみだぶ」
となります。
つまり、脳のリズム運動という身体的なエクササイズがあるのです。
来世の幸せ、罪からの救いという信だけじゃなく、
体の底からエネルギーが沸いてくるような刺激、「アゲアゲ」で元気になる、そんな効果が念仏にはある気がします。
念仏に限らず、仏教の修行、瞑想というのは、思想哲学だけに留まらない「効果」があると思うのです。
だってお釈迦様は、まず修行してから悟ったのです。
悟った後に、悟りで気付いたことを思想体系化されたんです。
思想の前にまず行があったんですからね。
現代ではほとんど行われませんが、浄土宗には「臨終行儀」というターミナルケアのやり方があります。
寝ている患者の手と仏像の手を五色のひもでつなぎ、患者の横でサポーター役の僧侶などが、患者の呼吸に合わせて「南無阿弥陀仏」の念仏を称(とな)えます。
患者と一緒に念仏したり、患者自身が念仏できない状態でもサポーター役が念仏を聞かせる。
その際に、患者がこの世に執着しないよう、家族はサポーター役をしません。
また、患者の臨終に泣き叫んだりして患者を動揺させるのも禁止です。
つまり、現在の「枕経」「お通夜」を、亡くなる前からベッド横でやるのが「臨終行儀」です。
なんとなく、出産時に妊婦さんの横で助産師さんが励ますのシチュエーションに似ている気がします。
病院で亡くなる人が多い現代では難しいですが。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

吉井浩文様

ご回答いただきどうもありがとうございました。
私自身にとってもどのように働きたいかという問題に関わってくる部分で、とても興味深く読ませていただきました。

1. 最初のふたつについて
「まさに仏教の扱うところ。これまで向き合ってきた歴史そのもの」というのは少し意外でした。ご指摘の通り、この本の著者はユダヤ教のラビです。信じていても裏切られたことが、信仰は救済の代価ではないと分かっていても、なおユダヤ教徒やキリスト教徒にとって驚きと失望をもって受け止められたことがこの本の出発点です。
「私の苦しみさえ神の思し召しなのか」という疑問に対しては、吉井様のようなお言葉が出ることに、つまり裏切られる可能性を認めた上で、未来に目を向けて「私はこれからどう生きればいいのか」を神との関わりの中で問うべきだと示すこと自体に意義があったと理解しています。

一方、「仏を信じても裏切られる可能性はあります」は、比較的素直に理解できます。「生きるとはそもそもそういうことで、あなたの苦しみには意味も実体もない。もし本当に苦しんでいるというなら、その苦しみを取り出して私の目の前に持って来てみろ」のように。不適切ではないかというのは、そもそもこのようなことを問う間でもないのではないかという趣旨でした。

2. みっつめについて
「三法印なんて、分かるけれど納得できるわけはない」もその通りだと思います。私自身が苦しんでいるのであれば、納得も受け入れることもできないまんま耐えられる限り耐えてみるでしょうか。目を逸らしたり折れたり曲がったりもするはずです。
 私は法律を学んでいますが、法と正義なんて唱えてみても、誰かの耐えがたい苦しみ、怒りや悲しさが癒されることはないのは明白で、「法の目的はそこにはない」と処理されるだけです。そこを出発し、どう生きるかについては、法は(学生のくせに何を偉そうなことをとは自分でも思いますが)無力です。そこでは法を捨ておき、人として出来るかぎりの共感と理解に努めること、すなわち邪魔をしないことしかできないと考えています。
そうした人々になにができるのか。それは法律や、願誉浄史様のお答えとも関係しそうですが「信」を超えた(または法や「信」の尽きた)領域での話のように思われました。

長々と失礼いたしました。
まだまだ寒い日が続きますが、どうぞお体にはお気をつけください。

願誉浄史様

お礼を申し上げるのが遅くなってしまい恐縮です。
タイトルを読んだ瞬間に「やられた!」と思いました。

思想の前に行があり、行には思想哲学だけに留まらない「効果」があるというのは本当にその通りだと感じています。「信」を「行」の目的地を示すためにお釈迦様が描いた地図だとイメージしてよいのかはわかりませんが、地図は目的地そのものではないのですね。また、歩いていれば少しは気も紛れることでしょう。心が体を支配しきっていることはなく、現に私たちは普段から気分転換に体を動かしたりしているのに、無意識のうちに心の問題は心の中だけで解決しようとしていたことを思い知らされました。

臨終行儀についても興味深く拝読いたしました。お棺の中に入る体験を提供する団体があると聞いたことがあります。知っているのと知らないのとではきっと恐れの度合いも違うでしょうし、昔から死について事前にある程度知っておく機会はあったんですね。家族は最初からサポーター役にならないというのも興味深いです。

この度は本当にありがとうございました。
機会がありましたら、またお話を聞かせていただければ幸いです。

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