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退屈という苦しみ

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私は常に何かせずにはいられません。退屈で耐えられないからです。
しかし理性的に考えてみると、くだらないインターネットのニュースを見てストレスを貯めるくらいなら何もしないほうがマシなのですが、なんで人間はこうも頭も体もせわしなく動かずにはいられないのでしょうか。
退屈という苦しみはどう扱うべきか参考になる話はありませんか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心がすでに「他事への求め」を起動させている

ブッダやアラカン、悟った人や仏道修行の要点を会得した人は心がそこに住して他を求めないようになります。
人間って浮気性なのでしょう。
そこに居ながら、一番大事にするべきことを大事にしない。
浮気の御相談の質問も多く寄せられますが、それも同じこと。
心が本当に着陸すべきところにいられない。
いつもよそに向かっている。
いつも他を選んでいる。
いつも別のものを欲しがっている。
それは言いかえれば「今をみていない」「思考を見ている」「事実をみていない」「事実に住していない」「心のアドレスが不安定」なのです。
家族家庭を愛せる人は今いる家族に目を向けます。
浮気性な人は外の異性に目を向ける。
その本質は「自分可愛がり」。
自分の満たされ方を間違っているという事です。
食べ物であれば毎日毎日ご馳走らしいものを食べたがる。
どっかのジャングルの部族だったら料理に名前なんてありゃしません。
私も料理は名前の無い料理が好きです。
ありあわせの野菜、季節の旬なもの、その素材に適した調理方法で「おいしく」頂くこと。
まずいものを美味しくいただくというのは我慢です。
何でもおいしくいただきなさいというのは無理。それはウソ。
それは調理がヘタなだけ。
何でもおいしくいただきなさいというのは、その素材という尊い命が持つ個性・カラー・法則・特性・徳性を活かして最上最高のものに仕上げるという事です。どんな高級素材を使っても焦がしたり、調味料を濃くしすぎたりしていながら「おいしく頂きなさい」というのは無理。私だったら、そこからでもセカンド料理を作ります。こういう場合は他事に向かっているとは言わないでしょう。事件・最悪な事態にとどまらず、苦を離れて活路を見出すという事。
あなたはその事に住すことができない退屈さを持つ。その苦しい状況から活路を見出すには、今申し上げたように心を今のことに安住させるという視点を持つことです。
坐禅って退屈に思われますが、坐禅の要点を弁えれば毎日がどこでも坐禅です。
この体の感覚の中の、自分がやっていない所に焦点を合わせて、そこにお任せする。
せわしなく探し求める心=餓鬼心を主人公にさせている人は満たされがない。
人間には誰にでも餓鬼心がある。
心のコックピットに座らせるべきは仏であって餓鬼ではいかんのです。
自己の脳を操るのは自己。
仏とは自己の内なる無為無我なる本来性。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。

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