何をすべきか悩んでいます
昨年まだ2歳の息子を亡くしました。事故なので突然です。妊娠中だったので、その4ヶ月後に女の子を出産しました。
下の子が産まれてから、何となく自分の子なのか疑ってしまい、世話をしていても亡くなった子のことばかり考えてしまいます。二人ともに申し訳ないと思うのですが、どうしたら良いのかわかりません。
せめて、亡くなった子のために何かできることはないのかと日々考えていますが、何もありません。会いたい、会いたいと自己中心的なことしか考えられません。
息子のために何かできることはあるのでしょうか?
何かあるのであれば、何でもやらせて欲しいです。
すみません。
助けてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
亡き人と出会い直す
ご相談拝読しました。お子様のご命終に謹んでお悔やみ申し上げます。
お気持ちをお察しするに余りあり、寄り添う言葉も浮かばないことを申し訳なく思います。
亡くなったお子様のために何かしてあげたいというお気持ちは本当に切なるものであると思います。
亡くなったお子様が今どこでどうしているのか、その実際は確かめることができずわかりません。
しかし仏教はけしてその命が不十分であったとか、悲惨で可哀想なものであったと、生き様や死に様で差別するような教えではありません。
今、何よりもお知りになりたいのは死後についてかもしれませんが、その死後を考えているのはあなたの「今」です。お子様の死後もあなたの今です。だからあなたの心の中のお子様にできることはあるのです。
大切な人を失う喪失反応を「グリーフ」と呼びますが、「グリーフ」について「リヴオン」という団体の下記の説明を読んでみてください。何かヒントが見つかるのではないでしょうか。
会いたいという反応も自己中心的だと自責するのでなくそのまま認めてあげましょう。それはそれとしてどんな反応も受容しつつ、今目の前のことに取り組んでいく意識も持ちたいところです。下のお子様もあなたの大切な存在ですからね。
あなたが自分の自然な思いを受け入れられるところに、あなたの中のお子様の成仏があるのではないでしょうか。
何かしてあげたいという気持ちは優しさや罪悪感のようなものかもしれませんが、それは裏を返せば何かをしてあげないと報われない存在としてお子様を見てしまっているということです。
死後の実際をこの目で確かめることはできなくとも、教えに聞き尋ねるならばお子様はもう迷いわない存在になり、むしろ仏様としてこちらを心配していると私はいただいています。
亡き人の成仏とは残された私たちの問題であり、それは亡き人との出会い直しなのです。亡き人を仏様として見い出せた時、私たちは亡き人に手を合わせつつ自らの今の生を問うていけるのです。
まずはあなた自身の気持ちを素直に吐き出し、それがどんな気持でも排除しようとせず受け止めていきませんか?
またいつでもご相談お待ちしています。
質問者からのお礼
早速のご回答、ありがとうございます。いつかすべてを需要できるようになるまで、今を一生懸命に取り組んでいきたいと思います。
まだまだ自分だけ生きてていいのかと思ってしまいます。
命日どうして? 何で? の繰り返しです。
そんな自分も自分で見つめていきたいと思います。
ありがとうございました。