「逃げたい」は悪いことでしょうか。
度々の質問で申し訳ありません。
仕事などで辛い、あるいは辛くなる未来を想像すると逃げたくなります。
私は今拒食症を患っていて、自己分析ですが、逃げたくなると拒食(病気)である自分に逃げようとするみたいで、そのせいか拒食症も全く良くなりません(良くなろうという気力が起きません)。
こんな逃げようと考えてしまうネガティブな自分、弱い自分が許せない一方で、逃げを考えることは悪いことなのか?という申し訳なくも甘い考えも浮かびます。
逃げを考えてしまうことは悪いことなのでしょうか。
また、逃げたくなった時、お坊様方はどのようにされているのかも、よければお伺いしたいです。
宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「下駄」を預けて生きる。
ひとまず逃げたことを「忘れない」。
これだけはぎりぎり保っていたいと考えています。
自己弁護になってしまいかねませんが。。
私の場合、
理想を言えば仏の道の世界観に則ることです。
それは
逃げずに当たって砕けたとしても大丈夫。
という世界観です。
なぜなら砕けても道は進むからです。
歩みを進めてくれる、そんな「仏の靴」をはいて生きているからです。
文字通り「仏さまの下駄」をはいた生き方です。
イコールそれは
「自分の下駄」を仏さまに預ける生き方でもあります。
交換こですね。
だから堂々と安心して「仏の下駄」をはいた自分を生きることができます。「自分の下駄」は預けているわけですから。
預ける先は「仏」に限りません。
古今東西あらゆるところで、それは「教養」であったり、「信念」や「誇り」、「恩」であったり「努力」であったり、はたまた「神」であったりします。
それらはすべて「自分の下駄を預ける」ためのもので、
ぶつかろうが逃げようが安心して生きていくためのものだと私は思っています。
だから歴史上、多くの先人方が「それら」の下駄をはいて生きてきたのだと思います。
実際のところ、私逃げています。
私もたぶんきっと、仏さまから預かった、この下駄を信頼しきれていないのでしょうね。
でもですね。
歴史に名を遺した先人方にも逃げた人いますよ。
エジソンだって逃げたし、小泉八雲も渋沢栄一も逃げています。
「動物は生きるために逃げるのは当たり前なのに
どうして人間は逃げるなって教わるのだろう」。
って10代の少女が新聞に投書したそうですよ。
でもその代わり
逃げたときは「逃げた」ことを忘れない。
そして反対に「逃げずに進めた」ことも忘れない。
「逃げたこと」だけでなく「進めたこと」にも注目したいと思っています。
そんな瞬間や場所、行い、なんでもいいです。精いっぱい探しましょう。
逃げずにできることを見つけたら
それだけでも精いっぱいやろうではありませんか。
「仏さま」の下駄をはいているなら
「仏さま」がきっと見ていてくれると信じて。
自分の下駄を預けて生きる。
それならば、逃げても砕けても「進む」ことはできるはずです。
それでいい、と言える気がします。
そうありたいと私は思います。
南無釈迦牟尼仏 合掌
質問者からのお礼
吉井様
ありがとうございます。
昔逃げた(と思っている)ことが忘れられず、自分に逃げるなと課していた自分がいました。正面から課題にぶつかってはいけませんでしたが、自分ができることはやります、というスタンスで臨み、なんとかやっていけそうです。
三宅様
ありがとうございます。
正面からぶつかっていけませんでしたが、上司と相談して、自分ができる範囲はやりますと伝え、仕事を差配してもらいました。
独りで抱えすぎていたのかも知れません。これが三宅様のいう対策だったのかは分かりませんが、なんとかやってみようと思います。