祖母に申し訳なくて涙しかでません
祖母が亡くなって悲しみも癒えないうちに夫の不倫が発覚し
夫は不倫相手と再婚したいと家を出ていきました。
まだ離婚はしていません。
先日祖母の家で荷物の整理をしていたら
今年厄年である夫のために祖母が取り寄せてくれていた
厄除けのお札を見つけました。
祖母は夫のことが大好きだと言ってくれていました。
私が良い夫と結婚できたととても喜んでくれていました。
でも夫は何年も前から不倫していました。
私も辛かったですが、祖母のことも欺いていたと
思うと、悲しくて悔しくて、そんな夫に愛情をかけてくれていた
祖母に申し訳なくて、涙が止まりません。
もうこの世にいない祖母になんて謝ればいいのか。
夫はまだ離婚していないにも関わらず、不倫相手との旅行など
facebookにアップして幸せそうに暮らしています。
私だけでなく夫を信頼していた私の家族も裏切った夫に対し、
憎しみが募るばかりです。
どのようにこの気持ちを乗り越えれば良いでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
愛憎違順-愛したり憎んだりの高低差
ご相談拝読しました。
まずはお祖母様のご命終にお悔やみ申し上げます。そして夫の不倫に心を痛めておられますことお見舞い申し上げます。
さて、夫婦は永遠の愛を誓って夫婦となるわけですが、私たちの愛とはどういうものでしょうか。
愛を「相手の全てをそのまま受け入れること」とするならば、けしてそんなことはできませんね。不倫をする相手までそのまま愛し受け入れるなどということはとてもできるものではありません。
このような私たちの姿を浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は歌にしています。
「無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す 愛憎違順することは 高峰岳山にことならず」(『正像末和讃』)
そのこころは、「私たちは身も心も激しく煩悩に覆われていて、まるで塵の数のように煩悩が満ち満ちている。よって心に順うものは愛し、心に違うものは憎む。それはまるで切り立った山岳のようなものである。」というものです。
>心に順うもの(自分の都合にあうもの)は愛し、心に違うもの(都合に合わないもの)は憎む
つまり、あいてを受け入れるどころか、「自分の都合」という条件付きの愛(それが愛と呼べるのか…)であるのが私たちの現実の姿でしょう。
夫が不倫に走ったのは夫が求める都合にあなたが合わなくなったから、あるいはより不倫相手がが都合に合ったから。そしてまたそんな夫の姿はやはりあなたの都合には合わないから憎む。
それが悲しい現実です。
>どのようにこの気持ちを乗り越えれば良いでしょうか。
憎んで憎んで憎しみを燃え盛らせてもいいでしょう。無理に感情を抑圧する必要はありません。
しかし、自分のどんな感情をも許し認めるということと、感情のままに行動することは違います。
憎むのはかまいませんが、行動として執着するのはやめましょう。もうこれ以上追っかけても良い結果はないのでしょう。行動としては現実的に淡々と離婚についての協議をしていくことではないでしょうか。
あなたのお祖母様への思いはあなたの大切な気持ちです。しかしそれと夫の気持ち・夫の都合はまた別であります。
私たちは結局都合を求めることでは幸せになれないようです。その都合自体がどうなのだ?と自分自身が問われてくることこそが大事なのでしょう。
悔しく憎ましい気持ちはそのままでかまいません。時と共に変化もあるでしょう。でも行動はよく考えてみましょうね。
質問者からのお礼
吉武様
ご回答ありがとうございます。
信じていた人を裏切ることも「夫の都合」ということで
片付けられてしまうのだとしたら、とても悲しいことです。