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浄土真宗の教えについて2

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有り難し有り難し 26

おはようございます。
前回に引き続き浄土真宗の教えについて質問させて下さい。

吉武文法様の御回答より引用
〉「覚りの世界に触れさせていただく」の具体的な相が「南無阿弥陀仏」のお念仏です。御念仏を申すところに阿弥陀仏の願いを聞き、智慧がはたらくことを感得する。

〉それは私自身が「まこと」になるのでなく「念仏のみぞまこと(歎異抄)」であるという感得により「まことならざる私」が明らかになるという形での覚りとの接触です。

かなり乱暴ですが、例えるならウサインボルト(阿弥陀様)の存在を知る事によっていかに自分は足が遅いか、まだまだダメな存在(煩悩にまみれた存在)かという事に気づけば、具体的な距離として自分のダメさに気づく事ができる。

そのダメさに気づく事ができれば、もっと練習(修行やお念仏)をしよう。と具体的に問題が解決に向かう知恵が出る。
という様な事なのでしょうか?

どうも私の理解力が不足している様で、前回の御回答を通して「凡夫の君には煩悩をなくす事はできないのだから、生きている間は煩悩まみれの苦しいままでいるしかないじゃないか。」と言われている気がきました。

それとも、死後は極楽に往生するという教えを苦しんでいる「今」の私がお念仏を通して触れさせて頂いたとして

「死ねば確実に苦しみから免れる事は約束されているのだから、今苦しくてもいつか終わるじゃないか!苦しみながらでいい、気楽にいこう!それをいつも忘れない様に南無阿弥陀と唱え、覚りに触れ続けましょう!」と仰っているのでしょうか?

もしトンチンカンな事を言っているようならば、ハッキリと仰って頂いてかまいませんし、回答者様の個人の味わいで問題ありませんので、お手数ですが御回答下されば幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

今回も中々書ききれませんが…

引き続き回答させていただきます。

まず、浄土・覚り・阿弥陀云々の前に、仏教は何を問題としているのかから考えてみましょう。

前回、お念仏(阿弥陀の願い)によりあきらかになるのは「まことならざる私」と表現しましたがそれは「ダメな私」ということではありません。「ダメ」というのは評価です。評価というのは煩悩が生むものですが、少なくとも仏教は煩悩を肯定はしませんがダメとも言いません。

ただ、「あなたはそうなって(煩悩を元として分別して)いますよ」と道理(法則)を説いています。

私たちは煩悩によって苦しむわけです。ではその「苦」とは何かというと、「(条件付けられていることによって)思い通りにならない(不満足性)ということです。」

老いたくない(分別・思い)けど、老いる(事実・道理)
病みたくない(分別・思い)けど、病む(事実・道理)
死にたくない(分別・思い)けど、死ぬ(事実・道理)
思い通りにしたいけど、ならない

老病死もその他諸々も一切は私の思い通りになりません。なぜ思い通りにならないかというと因縁によって条件づけられた法則で動いているから。その条件を思う様に私がコントロールすることはできないからです。
でも私たちは思い通りにしたい。なぜならば煩悩があり、煩悩は「私(自我)」という錯覚を生み出し(顛倒)、その錯覚は生み出した「私」に執着する(渇愛)からです。
渇愛は自分に都合の良いモノは近づけたい、都合の悪いものは遠ざけたいとする煩悩です。

と、前回の復習でここまできましたが、この煩悩を根本的に断滅しようというのが仏教の王道であり、でもそれは理論としては正しいけれどもこの私の身においては実現しないという立場に立つのが浄土門(浄土教・他力)です。

では浄土門は煩悩を肯定するのかと言うとそうではありません。あきらめるのかと言うとそうでもありません。

煩悩を煩悩と知るところに、煩悩の身のままでも煩悩を引き受け、煩悩を活かしていける道が開けれるという救いです。
これは味わいが強い表現ですが「安心して迷っていける、悩み苦しみ切っていける」とも言われます。

道理・法則をそのまま観ることができ、頷けるような私であるならいいのですが、そうではないからこそ道理を道理と知らしめられ引き受けられるために「浄土・阿弥陀」という「物語(宗教的事実)」が説かれたのです。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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質問者からのお礼

吉武文法様

ご丁寧な対応ありがとうございます。
ようやく朧げながら理解できました。
あれだけ考え、何冊本を読んでも分からなかった事が文法様のお陰でたった半日で解決してしまうとは!本当にありがとうございます。

これだけ理路整然と道理を説く仏教なのに、別世界である極楽浄土だけはどうもハッキリしない。うちと縁のあるお坊さんに尋ねてみても、文法様が仰っていた様に「凡夫の考えの及ぶ所ではない。」と一喝され途方に暮れていたのですが、お陰様でスッキリできました。ありがとうございます。

ただ、もう一つだけ疑問がありますので、もう少しだけお付き合いくだされば幸いです。

「浄土真宗」問答一覧

浄土真宗のお念珠を教えて頂きたいです。

私は真言宗のお坊さんを目指している中学生です。 将来おばあちゃんが亡くなった際、おばあちゃんは浄土真宗(代々の)で供養し、 私と母は真言宗に改宗して、おばあちゃんのお墓は墓じまいする。と決めました。 (おばあちゃんと母は苗字が違います) お寺とのお付き合いもないので、おばあちゃんの葬式は新しいお寺さんになるかと想像しています。 しかし浄土真宗は浄土真宗です。私達が真言宗でもお墓参りと法事にはしっかり浄土真宗で臨みたいね。と母と話しました。 そして私は来年高野山の高校(通信)に行きます。急に仏教学校に入りたいとお願いし、認めてくれて応援してくれた。今まで育ててくれたお礼に、仏教好きな私なりに、お念珠をプレゼントしたいと考えています。 その際、今後使える真言宗の念珠+ おばあちゃんの供養や墓じまい後のお参りの時に使える浄土真宗の念珠をプレゼント予定なのですが、 Amazonで見ていて、いいのは見つけましたが2連の念珠が多いように感じます。 しかし浄土真宗本願寺派や真宗大谷派は公式には略式念珠、単念珠を紹介しています。 しかし葬儀サイトにはみな女性用は2連なんです。 そこでお聞きしたいのは、お坊さん的に浄土真宗の女性用のお念珠は2連なのか単念珠なのか、どちらをおすすめだとお考えでしょうか。 西本願寺、東本願寺共にサイトで2連は蓮如結び、単念珠なら松房と書いていたので、そのものを購入予定です。

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厭離穢土欣求浄土の意味

「厭離穢土欣求浄土」の意味について、今年の大河ドラマをはじめ昨今の小説やドラマでは「この世を浄土のような平和な世にする」というスローガンだと説明されていることが多いですが、浄土宗は唯心の浄土ではなく指方立相の浄土を説くはずで、凡夫に浄土は築けないと教えているはずですから、この解釈は浄土宗の教義に矛盾していないでしょうか。元来の意味が厭世的過ぎて現代人に受け入れにくいので無理矢理こじつけたように思えます。これはむしろ即身成仏を説く真言宗や娑婆即寂光土を説く日蓮宗の考えに近い解釈ではないでしょうか。 凡夫に浄土が作れるのなら弥陀も念仏も要らないことになってしまいます。 ただ、「浄土宗は死を待つだけの教えではないのか? 法然上人の時代のように道を歩けば死体がゴロゴロ、いつ自分もその仲間入りするかしれない世ならともかく、現代ではそんなに今生きているこの現世を否定しなくてもいいんじゃないか?」というこの胸に芽生えた疑問への答えとしては厭離穢土欣求浄土の現代風解釈は便利なので、指方立相の浄土とは矛盾すると知りながら都合よく取り入れてみるのも悪くないかなとも思っています(真剣勝負と八百長との狭間をウロウロするプロレスファンなので、こういう曖昧な考え方は得意なのです)。 できれば浄土宗のお坊様のみならず、他宗のお坊様のご意見も聞きたいです。

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私の宗派は、選民思想の厭世主義?

 いつもお世話になっております。動画サイトで私の好きな、 リテラシーの啓発にも取り組んでいる、少しだけ破天荒な 科学者さんのチャンネルの動画を観ていたら、宗派名こそ 出しませんでしたが、 「この世はクソだから、自分たちは神様的な存在に祈って、天国 的な場所に生まれ変われる特別な存在だと思い込んでいる、 選民思想的な陰謀論者。つまり、異世界転生を本気で信じている んですよね」 と出演者さんが言っていました。遠回しに浄土宗のことを言って いるとすぐにわかりました。ショックでしたが、頷かざるを 得ませんでした。  前後編に分かれた、陰謀論に対する注意喚起の動画の、前編の セリフです。後編では、 「誰からも認められない人が陰謀論者になるのです。認めてくれる 人を見つけましょう。極論、人間ではなく、天の神様でもいい」 とフォローしてくださっていました。  なぜ浄土宗だと分かったのかというと、実際に、浄土宗の 寺院でたくさんそのような考えの人を見、浄土宗公式の チャンネルの法話でも、 「この世は苦しいことしかない、だから阿弥陀様に祈って、 極楽浄土に行きましょう」 ということしか言っていないからです。  お寺は本山でした。そこでお説教をしている布教師と、聴聞に 来ている信者は皆、 「他の宗派はろくでなし」 「他の仏や経、真言には利益がない」 「この世は汚いから、念仏だけして、お迎えを待つ」 などという考え方でした。怠惰な人たちだなあという印象でした。  これでは、誤解されても仕方がないよな、とも思います。  しかし、hasunohaでたくさんの(浄土宗含む)お坊様と 出会ううち、 「本山の人たちの言う事は、間違った暴論では?」 と思うようになりました。  確かに、この世は思うようにならないことだらけ…「苦」 だらけだと私も思います。  しかし、「死」や「苦」を意識し、世のため人のため、 「利他」行や「布施」行に、あらゆる形で全力で励み生きるのが、 仏教ではないか。そう考えるようになりました。  だとすると、「厭離穢土、欣求浄土」という考えは?先ほどの、 「この世はクソだから…」という思想になってしまうのでしょうか?  それとも、「この世を浄土にする勢いで」努め励もう、という ことでしょうか?  浄土宗は、選民的な厭世主義なのですか?ご高見を賜りたく 存じます。

有り難し有り難し 7
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ