師匠とどういう気持ちで付き合えばいいかわからなくなってきた
私は流産、大ケガを経験し、今は転移ガンの治療中です。
その間に、尊敬する師匠に赤ちゃんが産まれました。
厳しかった師匠が、赤ちゃんを稽古場に連れてきて、生徒に子守りをさせその微笑ましい様子を動画で録画しています。
赤ちゃんを連れてこない日は、その分生徒へのしごきがすごいです。
30年以上続ける自分のライフワークでもある趣味で、師匠の技術も作品も大変尊敬してきました。
しかしこの数年の自分の経験により、師匠に対してなんとも言えない気持ちなのです。
私はもう子供を望めず、なるべく赤ちゃんのいる稽古日は師匠に接しないことで自分の心を守っています。
自分のことに集中するのみと思っています。
そして日毎にアップダウンの大きい稽古は、治療中の体への負担が大きいことも伝え、休憩をとりつつ続けようと思っています。
師匠は、ガン治療中の私に、特別なかたちで1人の発表の場を与えてくれました。
稽古が私の治療のモチベーションになってることを理解してくれています。
そういった配慮や心遣いは大変ありがたいのです。
しかし、今まで気分で態度を変えられたり、私の尊敬心を弄ばれるように感じてしまったことも実はあります。
人間だから仕方ないとも思います。
そして、尊敬する師匠が幸せそうなのはとても良いことで、治療中の私への気づかいも大変ありがたい。
しかし稽古中に心がえぐられるような気持ちになる瞬間があることも事実です。
小さな頃からした経験や、いまは転移ガンや流産を経験し、なんだかさめたような気持ちになっていることもあります。
30年以上のこのライフワークはできれば続けたいです。
しょせんは他人。
しかし余計なねたみやつらい気持ちが、自分で自分を苦しめています
やはり尊敬している部分はあり、恩もあるので、真心をもって接したいとも思いますが、どこまでが真心なのか。
「自分はもう子供は望めないが、稽古が毎日のモチベーションになっている」ということを、新生児をかかえたお母さん(師匠)に言うのも、どうかと…
師匠とどんな気持ちで付き合っていけばいいでしょうか
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
醜い感情は心の主人ではない
浄土宗とう宗派でメインの修行は、南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)える念仏です。
ところが、人間の心には、念仏しながらも様々な妄想雑念が浮かんできます。
念仏すること自体を忘れてしまうくらいに。
これについて、日本の浄土宗を開いた法然上人は、念仏が心という家の主人であり、妄想雑念は心のお客さんだと言われました。
お客さんは、心にやって来ますが、必ず去って行きます。すると、主人である念仏が心の真ん中に現れます。
怒り・悲しみ・嫉妬・パニック、欲、怠け心などの妄想雑念、あなたの師匠への不快な感情は、心のお客さんです。
お客さんは必ず過ぎ去ります。
そのときに、心の主人として顔を出してもらいたい、心のホーム画面は、どのような気持ちにしたいでしょうか。
たとえば、生きとし生けるものの幸せを願う落ち着いた気持ちや、うろたえずにやるべきことをやる集中した状態を、心の主人に設定してはどうでしょうか。
妄想雑念は浮かんでも良い。醜い感情も浮かんで良い。
しかし、それらは必ず過ぎ去る。
雲は月を隠せても月を壊せない。雲が去ればまた月が照らす。
映画の映像は白いスクリーンを汚せない。映画が終われば真っ白いスクリーンに帰る。
そのように、瞬間瞬間に生じては滅する思考や感情を、客観的に見つめましょう。
たとえば、あなたが師匠と一緒に1時間過ごす間にも、心では、主人お客お客お客主人主人お客お客主人と入れ替わりがあります。
お客が来たときも、これはお客だ、お客は必ず過ぎ去ると、安心しましょう。
質問者からのお礼
「安心しましょう」とのお言葉、本当にありがとうございます。
心のつきものがとれたような気持ちです。
「心の主人、心のホーム画面は、どのような気持ちか
生きとし生けるものの幸せを願う落ち着いた気持ち
うろたえずにやるべきことをやる集中した気持ち」
お言葉いただき、そうでありたいと、気づかせていただきました。
また醜い感情もお客さんだと受け止めることができました
お言葉頂戴して以来、とてもらくに、稽古に励むことができています。
本当にありがとうございました。