傷ついた体験から臆病になりました。
現状問題としては、自他共に無職であることだと認識しています。きっかけは不登校からひきこもりです。どれだけ駄々を捏ねても、他人が人の為に出来ることなど人生においては無くて、自らが動く他はないのでしょう。それを分かっておきながら、他人を責め、自分も責め、何もかもを嫌だと泣き喚いて、日々を無為に過ごし、その過去ですら足枷になる中、真綿で首を絞められるような生活を送っています。
人から指摘されるであろうあらゆる非難や中傷や叱咤激励は、私の中からいつだって私に向けて放たれます、もはや何を言われてもそこに胸を打たれる鮮やかさも無く、ただ心のささくれかの如く事ある毎に引き攣るよう痛むだけです。
しかし、もはやどれほどの痛みを以てしても私は変われないのでしょう、そうすると私を変えてしまうのが肉親の喪失ではないかと思い、恐ろしいです。
そうまでしないと変われないのか、どこまでも怠惰で臆病で卑屈で救いようのない者なんだと。
自らを責めても何のメリットもないことは承知です、でも人に身の上話をする中で自らを痛めつけることを交えなければ、他者からの傷つく言葉が殊更目立つでしょうから、そうして自分を守る癖がついてしまいました。
自分を守るために自分を傷つける、最悪な防衛ですね。そういった手段でしか自分を労われません。
このような性根のねじ曲がった己がただただ口惜しいです。
両親は私の有様を嘆きこそすれ親身に寄り添うことはありません、嘆くことに治めることで精一杯なのでしょう、そうでもしないと私を追い出してしまいたくなるでしょうから(普段からその片鱗は見受けられます)。
過去に深く傷つきました、未だに癒えた気はしません、何かにつけ傷口に塩を塗りこまれ、おかしな癒着をして、もう以前の私には戻れなくなった。
しかし傷つくのは誰しもが日常茶飯事のはず。
ただ私は運がなかったのでしょう、車に轢かれ誰も通りがからず、雨風に晒され血は流れ傷口が塞がっても折れた骨はそのままに、見た目だけやや不格好ながらも立ち上がれた、しかし轢かれたことを知られていない私は誰からも手を差し伸べられずに途方もなく立ちすくむことしか出来ない、歩こうとすれば足は激しく痛み、また轢かれるのではないか今度も誰も助けてくれやしない、こわいこわいこわい。
今の私はおおよそこんな感じでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
車に轢かれたことを誰かに伝えないと、119番に電話しないと助けは来ません。支援している人もあなたに気がつきません。だから「苦しい」って下記の支援組織に伝えてください。
ハスノハでも精神的なサポートはします。しかし、もっと近くで直接サポートできる人もあなたには必要だと思います。
県相談センター
http://www.pref.kagoshima.jp/ab14/kenko-fukushi/kodomo/wakamonojiritu/wakamono-center.html
ひまわり
https://www.himawari-kagoshima.net/
ルネス
https://blogs.mbc.co.jp/mbcnews/3946
他にもネットで調べたら見つかると思います。
他人と自分を比べないでください。
この世は全て移り変わっていくものです。
あなたも変わることができるのです。
先ずは昨日までできなかったことを何か一つ挑戦してみましょう。
昨日歩めなかったほんの一歩が今日歩めたら、それだけあなたは変わることができたということですから。
感想
表現は詩人っぽいですけれど、何か説明したいような感じで、もっと言葉をそぎ落としたほうが良いのではないかと思います。
あと、言葉がデジタルな感じで、もっと「割り切れなさ」とかモヤモヤを表現できたら、と感じます。
「自分を守るために自分を傷つける」辺りはかっこいいので、その辺を中心にしては?
言葉は矛盾を起こします。言葉により為される思考もまた、矛盾から逃れ得ません。そのどっか近くにある「自身」を、それでも言葉で表現しようとする。己との戦いをしている(ように見える」あなたには、詩を書く事をお勧めします。