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自分が1番じゃないと嫌

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有り難し有り難し 16

私は何に対しても1番になりたいという気持ちがあり、
いろんな事に対してすぐに嫉妬してしまいます。

例えば仕事でも自分が1番注目されていたいし、
自分より他の人が注目されていたら、気持ちが落ちてしまいます。

逆に自分が注目されてる時は嬉しいんですが、いつかは他の人に行ってしまうんじゃないか、、とネガティブな方に考えてしまい、なかなか良い様に考えれません。
自分が出した案などに、口を出される事に対しても素直に受け入れる事が出来ず、嫌な態度を取ってしまう事もあります、、

自分が1番でいたい。
自分の存在を認めてもらいたい。
自分の事を誰よりも必要として欲しい。
という気持ちばかりが大きくなってしまい、ちょっとでも自分の気にくわない事があれば、過剰に反応してしまい、すぐに落ち込んでしまいます。
そんな自分がとても嫌になります。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分史上の一番の🍙であり続けましょう

周りを巻き込まないことです。
比較をするから苦しくなるのではないでしょうか。
それはアタマの世界。
おにぎり選手権で説明すれば自分が自分のおにぎりを握ればいいだけで、ほかの人がいくつ握ったとしても、自分がおにぎりを握っているときはただ自分がおにぎりを握っているだけ。
🍙
自分の手も目も、感覚も全身で「ひたすら」におにぎりです。🍙
他事がなく、比較もなく自分がおにぎりを握っているときはおにぎりの事しかないはずです。
ここで注目していただきたいのは「今そこの自分の活動が❝何❞を」握っているか。何をしているか。何と結ばれているか。
おにぎりの事をお結びとも言います。
この自己の身心と何かとの「むずばれ」「むすび」「むすばれごと」がある。
実際に握っているときは自己の身心とおにぎりとが結ばれているだけなのです。
その後の審査や評価というものは別物です。
評価された後に何かを考えるということも別物。
評価や結果を聞くときには自己の身心が他者からの評価と「むすばれ」ています。
勝ち負けや優劣を気にしたり振り返れば、それはあなたの身心が今まさにここでの質問の様に
「いまそこであなたが」他人との比較ごとと自己の身心が「お結び」されているのです。
自己は今、本当は何とリンク・お結び・🍙御握りしているでしょうか。
あえて握らずに手放してみましょう。
すべてを自由に握ることができます。
常に一番であろうとしても、現実問題上には上がいます。
比較したり、相手より勝とうとか優位に立とうとすることは要らないのです。
私は今、この私という自己の身心と、結ばれていること「それ」を意識する。
私はそばでテレビの音が流れています。それが私のお結びです。
スポーツ選手も競技という形で相手と比較しているように見えても、各自が各自の力を発揮しているだけなのです。
ここでの坊さんの布教活動も比較はありません。
ただ各自が各自の活動を行ずるのみなりです。
あなたはあなたの活動しかできません。
他の人も同じです。
同じ話を100人が聞いても聞き方も異なる。比較しようがありません。
同じ景色を100人が見ても感じ方はそれぞれ異なるのですから比較しようがありません。
各自が各自で今この身心が🍙しているところを生きる。
自分史上最高のおにぎりを。
今日も良き縁と結ばれますように。🍙

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます!
何度も何度も読み返しました、、
自分史上の1番、、心に響きました。
確かに私はいつも、なんでも人と比べてしまっていました。
頭では自分は自分と思っていても、なかなか思考は変えられませんでした。
これからも、すぐには変えれないかもしれませんが、頑張ります。

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