取り柄がなくなってしまった
タイトル通り、取り柄(具体的には勉強が出来なくなったこと)がなくなってしまったことで、自分のことを肯定出来なくなったことについての相談です。
私は、小中学校の時、勉強だけが出来る子でした。具体的には、体力は人並みなものの運動神経は壊滅的、コミュ力もぼっちになる程ではないものの平均以下という有様でした。
そんな私に対し、両親は全力で肯定してきました。というのも、私の親戚は皆学歴至上主義的な側面があり、特に母は学生時代にスポーツ少年にからかわれた経験から、運動が出来る子=悪、勉強が出来る子=善、という単純な二項対立的な思考の持ち主でした。
私自身もそのような家庭で育った上、事実自信のあったものが勉強だけでしたので、心の奥底で似たような価値観が根付いていました。
しかし、ある程度成熟していくにつれ、私の親戚が言っている論が矛盾に満ちていること、何より人と人を比べて相手を下げる生き方がひどく醜いものに見えてきたのです
以前このサイトでも相談させてもらったので詳細は省きますが、私の親戚は互いが牽制しあってるような人達で、そんな人よりも私には休み時間にサッカーをしている人達のほうが眩しく見えました。(隣の芝生は…という奴かもしれませんが)
そういう人達に近づくこと、自身の家庭への反抗の意味を込める事、そして何より勉強する意味がわからなくなり、嫌いになってしまった事で、あろうことか私は唯一の長所であった勉強をやる事をすっぱりとやめてしまいました。
実際以前より明るくなったと思いますし、「相手の良いところを見つけて楽しく過ごす」をモットーとして困ってる人がいたら助けていましたが、一度根付いた価値観はそう変わらないもの、心の奥では勉強が出来なくなった自分から逃げて、その他の面で他人に認めてもらおう、という他人ありきで自分が無い事に対して嫌気がさしてしまいます。
詰まる所、私も心の底では自分は勉強しか取り柄のない奴だとわかっていたのに、親戚という小さいコミュニティだけをデータにして、勉強が出来る人=悪、明るい人=善という毛嫌いしていた母と似たような安易な結論に走ってしまった事に気づき、自分を責める日々です。(親戚のことを責めるのも、それを言い訳にしてるような気がしてできません)
学校では明るいペルソナを被り、自分のことを責め続ける日々。私はどうすれば良いのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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必要に迫られて勉強する
近い将来、食べていくためには何かの仕事に就きます。
どんな職業でも、お金をもらえるだけの仕事をするためには、そのジャンルの勉強をする必要が生じます。
必要に迫られて勉強するのです。
学生の場合、卒業と、進学のために勉強する必要があるでしょう。
また、せっかく学校で色んな知識を学べる機会があるのに、吸収しないともったいないですよね。
他人と比べてどうとかより、必要な知識、必要な情報を得るという勉強の原点に帰りましょう。
欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩は誰にでもあります。
煩悩は悩み苦しみの原因になります。
自分の煩悩に普段から気づくようにしましょう。
そして、他人の煩悩に対して慈しみ許す寛容さも意識しましょう。
それだけでも、人間的に賢い存在になれると思います。