初めて身内の死を経験してから
3年半前、祖母は余命2~3ヶ月の末期癌と診断されました。
ですがよい病院に巡り会え、度々余命宣告されても、家での治療を続け元気な姿を見せてくれました。
その祖母も、春に余命2週間を宣告され、そのとおりに亡くなりました。
亡くなる数日前までは酸素も回復し、本人も「みんなでお花見しよう」「退院したら○○へ夕飯行こう」なんて楽しそうに話していて。
突然危篤状態になり、次の日にという流れでした。
私はこの3年間延命してる姿を見て「こんな笑ってる人が死ぬわけない」と思い込み、祖母に優しくできなかったことをとても後悔しています。
仕事を理由に何度も誘いを断り、私が口ベタなこともあり話のキャッチボールが少なかったり。
まともな思い出も去年秋の旅行と、亡くなる前の誕生日会くらいです。
亡くなって2ヶ月半経ちますが、かなりの頻度で夢に出てきます。
街中で同年代のお年寄りを見かけるだけで悲しくなります。祖母の願いであった私の結婚報告も、式の参列へも、叶えられなかったことを考え泣いてしまいます。
亡くなる数時間前、駆けつけた私を見て涙目で手を握ってくれました。
必死に抱きしめようとしてくれましたが、医療器具やベッドの柵が邪魔で出来なかった悲しみや、死の直前まで生きたいと願っていた祖母の姿が頭から抜けません。
死の悲しみは誰もが通る道だとは分かっていましたが、、
どうすれば前向きに生きられるでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
出会い直し、出会い続けていく
ご相談拝読しました。お祖母様のご命終に謹んでお悔やみ申し上げます。
南無阿弥陀仏
さて、死というものは故人がその身を通して正に命をかけて残された人に伝えてくれる大事な教えです。
お祖母様との最後の時間を通してそれをしっかりと受け取らせていただいたのです。様々な思いも浮かんでくることでしょう。なので無理に前を向いたり明るく努めることもないと思います。
私たちは老病死は避けられません。
己が若さもやがて老いるべき若さであり、己の健やかさもやがて病むべき健やかさであり、己の生・命もやがて死すべき生なのです。
そしてまた老病死の事実を知りながらも生きることも避けられません。それが生死の身を生きる厳しい事実です。
人はその事実から目を伏せたりごまかしたり…生きている間楽しめたらそれでいいと盲目的に流されたりします。
しかし死の事実、とりわけ身内ともなればその体験は私たちを大きく揺さぶってくるのです。
さて、死は確かに悲しいものですが死の瞬間だけがお祖母様の人生ではありません。死に様だけではないはずです。
生まれてから過ごした時の全てがお祖母様の人生です。さらにはあなたにとってのお祖母様の存在はこの度の死で終わりではありません。
むしろこれからいよいよ深く出会い直していくことができるのです。
その出会い直しはお祖母様の死の事実を通してそうした大事な事を伝えてくれる仏様としてのお祖母様との出会いであり、また、そうした事実をやはり生きている自分自身との出会いでもあります。
あなたは今も後悔や寂しさや悲しみなど様々な囚われの中にありますが、お祖母様はもうそうした身を煩わせ心を悩ます全てのものから解放されていきました。
そのお祖母様の姿に気付けたときに、後悔は尽きねども、迷っているのはお祖母様でなく残された自分自身であり、その自分自身に気づかせてくれる仏様としてのお祖母様が見出されてくるのではないでしょうか。
合掌
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました。
死の瞬間だけが祖母の人生ではない、というお言葉がとても心に染みました。
近年の平均寿命より早い死、闘病生活の苦しさばかり考えていました。
祖母は祖父と出会い、子供も孫も産まれ育て、たくさんの友に囲まれ、私と過ごした日々も病が始まった3年半の短さではありません。母がいないとき、毎日自転車で通ってお世話しに来てくれました。本当にその通りでございました。
これからお盆、一周忌と、祖母と向き合ってまいります。
また悩んだときはご相談に乗っていただけると嬉しいです。改めてありがとうございました。