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呼吸が辛い

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有り難し有り難し 14

こんにちは!また悩みが出てしまいご相談したいと思い書かせて頂きます。
僕は喉に持病があり、息苦しくしんどいながらも何とか生活していましたが、急に緊張の糸が切れたのか、もう呼吸をしたくないなと思ってしまいました。
しかし呼吸をしなければ死んでしまいます。息を止めても苦しくなって呼吸をせざる負えなくなり呼吸をすると息苦しさがまた襲ってきます。
呼吸をするというのは生きていく以上絶対なのでしないといけないのは仕方がないと思います。
なので緊張の糸が切れたこの気持ちを立て直すというかもう呼吸するのが嫌だという気持ちを打ち消す方法はございませんでしょうか?
緊張の糸が切れてからというものずっと気持ちが沈みっぱなしで死ぬまでこの苦しい吸って吐くという行為をしなければならないのかとやるせなく困っています。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

呼吸そのものに毒ガスは含まれてない

そんなに呼吸を嫌わんことです。
私はこのKUSOアツい日が続く中(KUSO言うな)、あまりにもアツいのでエアコンをつけました。
するとしばらく使っていなかったために、エアコンの中にはまっくろくろすけや真っ黒カビ介、ミニキノコ1号2号3号4号5号6号レッツラゴーで。おかげで風邪といいますか、マイコプラズマと言いますか、肺炎状態にあります。もうかれこれ一週間近く治りません。助けてください。
そんな、老い先短いタンタン丹下の言うことですが、呼吸に物事が何も伴っていないことを悟るとよいでしょう。別に呼吸の事ばかりではありません。
今見えていること、聞こえていること、感じていること、出会っていることに、あなたの思いは割り込んでいないという光景がある。
人間は事実より、思考を優先させるから自分の思考ファースト頭脳なってしまうのです。
本当はその現場で起こっていることは、ただ、その通りというさまがあるはずです。
今日のkuso暑さ一つにしても(kuso言わない)農家の人によってはありがたいし、雨が降ってほしいという人もあれば、プールや海沿いのお店は繁盛し、日傘や日焼け止め製品はBAKA売れで(baka言わない)、コンビニも涼しさを求めてkuso混んでるかもしれません。(kuso言うな)
ですが、それもただその通りのさまという姿があります。
この自己の身心のディスプレイ上に映し出されるもののありようはKUSOなのです。(空相の意か)
空なる相とは、こちら側の私見がまるで歯が立たないということ。
自分にとってはこう思うよ、ということでも他の立場からすればまるで違う価値。
さらに深く申し上げれば、今日の天気一つにもこちら側の見解が伴わないから、何でもない天気なのです。心の中の「人」がそのことを取り上げて、ニュースやワイドショーのように評論・評価をするから苦しいのではありませんか?
心の鏡、心のディスプレイを空じて見ましょう。
自分の脳内コメントが加わる前のまっさらなスクリーンがどんどん変化しながら上映されているはずです。
そこに「あなた」というおしゃべりなコメンテーター、司会者、評論家をよばないままにすごすのです。
そうすると世界は元々空相ですから、あなたの思い方とはまるで違う景色が開かれるのです。
空なる相を見出せましたか?空相は悟りの花を開かせる心の肥やしです。🌷

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

こんにちは、丹下覚元様。ご返答ありがとうございます。
反応遅くなってしまってすみません。
丹下様も肺炎になってしまっているのですね。よくなっていくことをお祈りさせて頂きます。

僕はあまり頭がよくないせいか読解力が乏しいのですが、ありのまま今の状態を受け入れて何も考すに空相の世界のままでいようということでしょうか?(間違っていたらすみません)
すぐに出来る感じではありませんがそれを目指して行ってみようと思います。
kusoとかbakaとか陽気な人だなと面白かったです。
ありがとうございました。

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