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十牛図

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「十牛図」という本を読みました。最初の数枚は何となく分かるのですが、「人牛倶忘」のその後の境地はどういうものなんでしょうか。何度読んでも生き方として具体的なものが思い浮かびません。何か実生活(対人関係、仕事、人生など)に生かしやすい例えがあればご教示いただけますでしょうか。よろしくお願い致します。

こちらに質問して良いものか悩みましたが、他に聞くところも分からず勢い投稿しました。場違いでしたら申し訳ありません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

遠方の理想の地を追い求め 手元を忘れ 今の景色が色あせる

人も牛も共に忘ずる。
いわゆる世間の思い描かせる自分探し的な「本当の自己・本当の自分」というものは、モデルを描かせるのです。
本当の自分らしいもの。
今自分の思い描いている所の本来の自己。
それを思い描いているとき、息をしている自分は何者か。
こっちを置いてどこを描いているのか。
あれだ、あいつだ、いつかこうなるぞ、と思い描いているの自己は「こっち」でしょう。
そういう思い描きの本来の自己や、本物らしさを描かせる悟りや仏らしい仏もみなもとから自分の思い描いていた自己流の理想・理想本尊・イメージの悟りというものでしかないのです。
それを描く自分も、理想郷も本来の自分とはこういうものであろう、と思い描く自分こそ一番気づきにくい自己です。
それも捨ててしまい、それすら立てないで今の実相をみる。
どこにこれから先に向かうべき浄土らしい浄土、彼岸らしい彼岸、悟りらしい悟りがあるか。
それはみんな人間の「俺・わたし・自分」というOSが思い描いた勝手無責任極まりないファンタジーワールド。
釈尊や祖師の言われるところの本当の彼岸浄土極楽とはどこか。
その名は多くあれど皆この自己の触れている今、現前の絶対事実。
掴もうと思ってもとどめておくこともできない。
言葉で説明しようにも遅い。
電車に乗って自分の家が見えるところで自分の住所の番地を唱えたところで、そこは瞬時に通り過ぎていく。
たて事の一切無い所。
仏教思想っぽいものや、仏教の後発的な知識も捨てきったところ。
仏教語も禅語も経典の言葉もそれを思う自己意識も坐禅・禅定によって滅却したところ、知識で「へぇ」と知ったものとはけた違いな一大真実に相見する。
段階ではないのです。
この自身の上に中の段階などない。
自己の身心に映し出され現れているのは1秒前の過去でもなく、1秒先の未来でもなく、今あなたの両眼に映し出されているところでしょう。
どこに牛がある。
どこに己がある。
耳も忘れ、目も忘れ、過去のいざこざも忘れて「これ」を見ている。

だまされるなかれ。

毛筋ほどの細かな想念が立ち上げり、それを拾えば目の前の如来は見失われる。
ご自身の見ている「ところ」はどこか。
そっちは思考をアドレスとしたイメージの世界。
こっちは事実を軸とした住するところ無きアドレス。
まさに住するところなくして真実は友となり仏となって汝に語りかける。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元 様

こんな浅はかな質問に丁寧な回答をして下さり、ありがとうございます。1日経って質問を読み返し、回答を読んだ今となって、「何枚かは分かる」などと烏滸がましいことを言った自分が恥ずかしくなりました。

『遠方の理想の地を追い求め 手元を忘れ 今の景色が色あせる』というお言葉の意味も含め、今ここに在るものから謙虚に学び、問い続けていきたいと思います。貴重なお時間を割いて回答して下さり本当にありがとうございました。

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