飼っていた愛猫が事故で亡くなりました
飼っていた愛猫が事故で亡くなりました。
放し飼いで飼っていたのですが、叔母が仕事から帰ってくるときに猫が門の近くで寝ていたのを知らずに轢いてしまったようです。
叔母はすごく轢いた事を後悔して「酷いことをした」「きっと苦しかったんだ」と疲弊していました。
お墓を作り、お気に入りのおやつを沢山あげてお線香をたきました。(我が家の精一杯の供養と思っています)
でも、死ぬ時に嘔吐するほど苦しく痙攣し目を見開きながら亡くなったので、きちんと供養できているのか不安です。
もしかしたら祟られてしまったりしないでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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迷っているのは死者か生者か
ご相談拝読しました。
猫ちゃんのご命終に謹んでお悔やみ申し上げます。
叔母さまもショックでしょうし、あなたもショックでしょう。
「死」というのは人間に問いかけてくる力がとても強く、それが愛猫ともなれば影響が多大であることでしょう。
悲しみの深さが愛の深さです。
そして「死に様」「死に方」というのは最後に印象深く刻まれますから「死後」に影響するのでないかと不安になる気持ちもわかります。
ですがハッキリ押さえておかなければならないのはその死後は人の「想像」でしかないということ。つまり勝手に思っているだけなのです。
祟るとか、供養が足りないとか恨むとか、それは誰が決めているのでしょうか。
亡き存在がすることではありません。生きているものが勝ってに死者のせいにしているに過ぎません。
死者を自分の都合で「ご先祖様」と祀り上げることもあれば時には「祟り神」にもしてしまう。生きているものほど恐ろしいものはないのではないでしょうか。
死者はもう何も語らずたただだその「死」を通して私たちに問いかけてくるのみです。だからこそ生きている者の様な勝手な思い計らいから解放されたその姿を「仏様」と仰いできたのでしょう。
死者が迷うのではありません。生物が都合で勝手に迷わせる、つまり迷っているのは生者の方なのです。
どうかこの悲しみを縁として、仏教を学んで参りましょう。そして命の儚さ、尊さを受け止めるとともに、自らの迷う愚かな姿をも明らかにして参りましょう。
猫ちゃんは祟りませんのでどうかご安心ください。