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生きるとは

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私は先天性の障害で40年近く生きてきて、それなりに苦労してきました。

会社でパワハラに合い、鬱にもなり会社を退職しました。

そして、この度難病指定を受けることになりました。

笑っちゃいます。

ずっと子どもが欲しいと思っていたけれど、半分の確率で遺伝するそうで、今までの苦労を思うと、とてもではありませんが、私の遺伝子を残す事はできません。

子供の頃からお母さんになるのが夢でした。

今は、再就職に向けて必死で資格取得に励んでいます。

全く楽しいことが無いかと問われれば、それもまた違います。

でも、もう生きていてもただただむなしいのです。

自殺しようとは思いませんが、いつ死んでも全く問題ありません。

輸血も臓器提供も手術経験があるので、できません。

もし、それでも私の臓器を欲しいと言う人がいたら、私は喜んで差し出すでしょう。

生きたくても生きられない人がいるのも十分わかります。

でも、生きていることがただただ辛い人間もいるのです。

命を無駄にしようとは思いませんが、苦しいというよりは、虚無なのです。

自分の子どもを手にかける人には、その人なりの苦しさなんかがあるのだとは思いますが、不公平だなとも思います。

諦めているつもりですが、時々無性に苦しくなる。

誰にもこの気持ちは伝えません。

伝えても悲しませるだけだから。

疲れました。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

生命にあらかじめ思い込みを添えない

そのように悩まれて自分の持っていることが遺伝されては可哀そうだと考える人は増えているそうです。
うちの娘は言語が遅く、いまだに言葉が出ません。泣
幼稚園に通いながら週二回は言語支援学校に行っております。
私自身も4歳くらいまでほとんどしゃべらなかったそうで。
妻には迷惑をかけていますが、わが子はただ存在してくれているだけでもありがたいものでございます。
あなたが今苦しいのは最悪の事態を「こうなるに違いない」と不幸ばかりを決めつけて想像してしまっておられることではないでしょうか。
思うことと、事実、現実はことなるものです。
仮に障害を持って生まれてこられたにしても、それで人生が終わったとか、つらい思いをさせるというのもその人がそのタイミングで思い起こすだけです。そして、それが何回思い起こされるかもその人次第。子供は元気であれば親にやんちゃで迷惑をかけることもありましょうが、それは一方からすれば元気でよい事。
親がどうこう言ったり、裁判官のような判断を下すべきことではなく、天地自然の天然の素晴らしい個性だったりするものです。
私も子供のころはしゃべらんかったそうですが、今はしゃべるシャベル。つまり、わからんということです。さぞかし、私は親に「この子は早く死んじまうだろう」と思われたそうですが、生きてます。笑
幼稚園の時のあだ名は骸骨でした。ガイコツですよ。がいこつ。もう一度言います。ガイコツね。💀。
お釈迦様の苦行の像もビックリな目が浮き彫りになるくらいの骨っぷり。
「この子は死ぬだろう」とガチで思われてたそうです。
ところが、今、ブーデーです。ぶーでー。BUU‐DEEね。
晩年のお釈迦さまもビックリなブーデーです。
つまり、申し上げたいことは子供の生命は子供の声明で親とはまるで別物。別行動。
私も学生時代、死のうかと思いましたが、生きて、こうして誰かの悩み相談をやっていたりします。負の苦しみは負のままにさせておいてはいけないのです。
どんな毒薬と言われるものもあるものを生成する上には絶対に必要なものであったりします。
病気があっても、目があり耳があり口があり手があり、活動ができる。
ならばこそ、その無限の活用ができる身心で何をするべきかっ。
それを伝えるのが私は教育であり、万人が救われゆく道であると思います。
まずはお考えを改めて見ましょう。救いはあります。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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