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人と善い繋がりを持つには

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有り難し有り難し 18

初めてご質問させて頂きます。よろしくお願い致します。
数週間前に、数年間付き合っていた彼女とお別れしました。原因は彼女に対する私の依存、言動の酷さです。彼女は明るく合わせ上手で、また私が長年嗜んでいる趣味と似通った趣味を持っているという共通点もあり、私を色々な意味で認めてくれていました。今まで認められる経験の少なかった私にはそれもありがたく、甘えてしまっていました。絶交という別れ方ではなかったものの、彼女には会わせる顔もありません。
別れた後、自分の彼女に対する言動の酷さに初めて思い至ると共に、恋愛に限らず、これまで関わってきた人達に対する私の言動や見方も省みてみました。その時にこちらのサイトを知り、様々な方とお坊様の問答を拝見し、自らを省みる助けにしていました。
これまでの私は、我を全面に出して周りの人を振り回し、自分が人を傷つけた事や手助けしてもらった事は忘れ、傷つけられた事や手助けしてあげた事は忘れず、勝ち負けや上下に拘り、そのくせ負けは認めず、勝ちには驕り、人を見下した思考をしていました。頭の中は憎しみや怒り、不公平感ばかりでした。二十代半ば位にはそういう性格になっていました。彼女に対しては特に酷かったと思いますが、彼女以外の人達に対しても酷いものでした。
それに気が付いた時、これまでに無い後悔と孤独感を感じました。今まで私は満たされていると思っていましたが、何も満たされていない、そういう性格になってから、人との温かな思い出というものが何も無いという実感がありました。すごく恐ろしい実感でした。
彼女と別れてから、私は価値観が変わりました。金銭や車などは無ければ困るという程度の道具に過ぎず、社会的な地位などいずれ剥がれ落ちる仮初のものだと思っています。大切なものは、お互いに深く思い合える人達との善い繋がりであると思うようになりました。仕事や金銭がどうでもいいとは思いませんが、善い繋がりにはとても替えられないと思います。
その為に今、こちらのサイトであるお坊様が仰っておられた「我を自分の前に出さない」という事、我を静める為に趣味を活用するという事、生きる事は様々な支えあってこその事と感謝を心に持つ事を実践しています。長くなりまして申し訳ありませんが、善い繋がりを持つには、何を実践すれば良いでしょうか。ご意見、ご指導頂ければと思います。よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

およそすでに我が起動している

我とは自我。
スマホで例えれば「わたくしアプリ」が起動している状態。
「わたくし」がこの自己の上に起動しているから、そこを軸に生きる。
そうすると自分の都合が優先されていくのは言うまでもアラジンです。
彼女に嫌われてしまった、
彼女に申しあわけがない、ああ、俺なんて俺なんて、と自分を凹凹にするのも我の働きです。
すでに起こったことを「わが見解」でとどめようとしたり「自分の価値観」で思い込もうとする働きが生じるのです。
仏典にはこのようにあります。
馬の耳に念仏。
馬耳東風。
暖簾に腕押し、糠に釘。
そして【女心と秋の空】と。(仏典でもねぇし、ことわざじゃねぇか。)

あなたの脳内は今まさにモーソーワールドが展開しています。私の住む埼玉にある世界平和祈念施設、悪の意識に対抗する善玉菌の秘密結社「テラミナティ」から深い瞑想の中、あなたの脳内を念じましたところ、どうやら被害者意識という念によってPAINT IT BLACKされてオサキマックラ状態。マックロクロスケ。
そんなに自分を責めてもノレンニウデオシです。
彼女には自分の人生史上最高の感謝をささげて、自分のエゴや我に取り込まないことです。
どんな生命体もそれぞれがそれぞれが独立存在なのですから。
おそらくあなたが振られた理由はあなたの中ではきっとこういうことだろうと思っているでしょうが、きっとこの中にあるかもしれません。
https://smartlog.jp/37536
いずれにせよ、振られた後も生き続ける生命、がんが治ってもいずれ死ぬ人生。
私も昨日から40度の熱が出て死にそうですが、それでも今を生きるのですじゃー。
ぐじゃぐじゃ泥沼にはまって凹んでいても心は何も進展しません。
こだわる、執着、気にするというのも自我・エゴ・我のやることです。
こちらにお坊さんが、執着を吹き飛ばす説法をなされていますので、一緒に高速礼拝(経度萬)してみるとよいでしょう。https://www.youtube.com/watch?v=ji2UPxpB37w

落ち込むべき時は落ち込み、そこから後は這い上がって輝かしい方向へ向かって進むのです。
人との良いかかわりとは、自らの我見や我念を先立させない事。割り込ませないことです。
まず、そこに気づくだけでもいい。我の立たざる時は良いかかわりができていたはずですから。その道を行きましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様
体調のお悪い中、ご回答頂きありがとうございました。どうも我に囚われてしまいがちで、また独り善がりになってしまう所でした。ご指摘を頂けて良かったです。リンク先の振られた理由、いくつか当てはまると思います。リンク先のお坊様の高速礼拝、これ位の礼拝でないと、私の執着は吹き飛ばせないかも知れません。お陰様で何か気楽になった気が致します。
頂いたご回答をこれからも折に触れて読み返し、戒めにしていきたいと思います。
早くご快復されますようお祈りしております。ありがとうございました。

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