全てがどうでもよく思えてしまいます
私は今高校生なのですが全てがどうでもいいと思ってしまいます。
勉強や部活などやらなければならない事が沢山あるのですがやる気になれないし、どうでも良く思えてしまいます。別に勉強や部活が嫌いという訳ではないし、寧ろ好きです。でも、興味が湧きません。
後、生きる事もどうでもいいと思ってしまいます。誰かに死ねと言われたら死ねるし生きろと言われたら生きれるという状態です。生きる理由は無いし死ぬ理由もありません。死にたい訳でも無いし生きたい訳でもありません。
物凄く自分が空っぽ過ぎてどうすれば分かりません。別に病んでる訳でも無いし辛いことがあった訳でもないです。多分傍から見たら幸せな人生を送ってる方だと思います。どうすればこの気持ちが消えますか?難しい相談事で申し訳ありません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
全ては来たっているのか、去っていくのかの視点を変えよう。
諸行無常という言葉があります。
「色は匂へど散りぬるを」でおなじみの「いろは歌」の一句目です。
多くの人がこの諸行無常という事を、去っていく、消えていく、滅していくと読み取ってしまいがちなのですが、本当は来たっている。現れている。新しいことが常にこの身に起こってくれていると読み取って頂きたいのです。
あなたの経験された痛ましいことも去っていってくれています。
もう、昨日まで、さっきまでの悲しい私は細胞レベルでも生まれ変わっています。
でも気持ちとしてそう離れない。
そんな時は、今、この身心というスクリーン・鏡・ディスプレイにたった今映し出されていることに目を向けてみましょう。
それが坐禅マインドです。
坐禅マインドは思考に目を向けずに体感されていることに目を向けて、体感されていることの中にネガティブなイメージや、悪く考えることが何も伴われないままに体感されていることを学びます。
私のいる埼玉では、朝からセミの声がミーンミーン。
どの声一つとっても毎瞬毎瞬、毎秒毎秒新しい。
そしてこの身心、体が受け取っていることは、誰も何も文句もケチもつけていない「まっさらな」こととして現れています。
私たち人間が体感していることは、失われて行っていることばかりではありません。去っていくことばかりではありません。
今新たに始まっていることが沢山あるのです。
今新たに始まっていることに「どうせさっきと同じだぁ」と悪く意味を添えてはいけません。
今新たに来たっていることは、まだ何も人間のアレコレ思うネガティブな意味がまるでついていない、あなただけのものなのですよ。
そういう受け止めを大事にしてみましょう。✨
自分のためではなく、他人のために。
おはようございます。亀山純史と申します。
自分がなすことは、「自分のためではなく、他人のために。」と捉えてみてはどうでしょうか。これは仏教にある「自利即利他」という言葉に繋がる考えです。お釈迦様は35歳で悟りを開かれましたが、その後の人生は他人を導いていく伝道の人生でした。35歳での悟りは「自利」であり、その後の伝道活動は「利他」になります。それが「即」という字で結ばれることは、「自利」は「利他」へと繋がってはじめて「自利」は完成するということでしょう。自分の殻に閉じこもらず、他者への働きかけを行うところに、お釈迦様の偉大さがあるのだと思います。
以上が私からの回答です。高校時代は自分の在り方に思い悩む時代だと思います。私の回答は数ある回答の中の一つにすぎませんが、少しでもお役に立てれば幸いです。
質問者からのお礼
ありがとうございます
少し気が楽になりました