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全てがどうでもよく思えてしまいます

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有り難し有り難し 24

私は今高校生なのですが全てがどうでもいいと思ってしまいます。
勉強や部活などやらなければならない事が沢山あるのですがやる気になれないし、どうでも良く思えてしまいます。別に勉強や部活が嫌いという訳ではないし、寧ろ好きです。でも、興味が湧きません。
後、生きる事もどうでもいいと思ってしまいます。誰かに死ねと言われたら死ねるし生きろと言われたら生きれるという状態です。生きる理由は無いし死ぬ理由もありません。死にたい訳でも無いし生きたい訳でもありません。
物凄く自分が空っぽ過ぎてどうすれば分かりません。別に病んでる訳でも無いし辛いことがあった訳でもないです。多分傍から見たら幸せな人生を送ってる方だと思います。どうすればこの気持ちが消えますか?難しい相談事で申し訳ありません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

全ては来たっているのか、去っていくのかの視点を変えよう。

諸行無常という言葉があります。
「色は匂へど散りぬるを」でおなじみの「いろは歌」の一句目です。
多くの人がこの諸行無常という事を、去っていく、消えていく、滅していくと読み取ってしまいがちなのですが、本当は来たっている。現れている。新しいことが常にこの身に起こってくれていると読み取って頂きたいのです。
あなたの経験された痛ましいことも去っていってくれています。
もう、昨日まで、さっきまでの悲しい私は細胞レベルでも生まれ変わっています。
でも気持ちとしてそう離れない。
そんな時は、今、この身心というスクリーン・鏡・ディスプレイにたった今映し出されていることに目を向けてみましょう。
それが坐禅マインドです。
坐禅マインドは思考に目を向けずに体感されていることに目を向けて、体感されていることの中にネガティブなイメージや、悪く考えることが何も伴われないままに体感されていることを学びます。
私のいる埼玉では、朝からセミの声がミーンミーン。
どの声一つとっても毎瞬毎瞬、毎秒毎秒新しい。
そしてこの身心、体が受け取っていることは、誰も何も文句もケチもつけていない「まっさらな」こととして現れています。
私たち人間が体感していることは、失われて行っていることばかりではありません。去っていくことばかりではありません。
今新たに始まっていることが沢山あるのです。
今新たに始まっていることに「どうせさっきと同じだぁ」と悪く意味を添えてはいけません。
今新たに来たっていることは、まだ何も人間のアレコレ思うネガティブな意味がまるでついていない、あなただけのものなのですよ。
そういう受け止めを大事にしてみましょう。✨

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

自分のためではなく、他人のために。

おはようございます。亀山純史と申します。

自分がなすことは、「自分のためではなく、他人のために。」と捉えてみてはどうでしょうか。これは仏教にある「自利即利他」という言葉に繋がる考えです。お釈迦様は35歳で悟りを開かれましたが、その後の人生は他人を導いていく伝道の人生でした。35歳での悟りは「自利」であり、その後の伝道活動は「利他」になります。それが「即」という字で結ばれることは、「自利」は「利他」へと繋がってはじめて「自利」は完成するということでしょう。自分の殻に閉じこもらず、他者への働きかけを行うところに、お釈迦様の偉大さがあるのだと思います。

以上が私からの回答です。高校時代は自分の在り方に思い悩む時代だと思います。私の回答は数ある回答の中の一つにすぎませんが、少しでもお役に立てれば幸いです。

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おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

質問者からのお礼

ありがとうございます
少し気が楽になりました

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