100か日
いつもご相談にのって頂きましてありがとうございます。
母親が亡くなり2週間程たちました。
法要は初七日をお葬式の時に、それから七日ごとにお坊さん呼んでとやっておらず、今度きてもらうのは、49日に自宅にお坊さんをお呼びします。
初七日に続く大事な法要とききました。
母親が極楽に行けるようみんなで願う。
そして家族はそれが終われば一周忌の際にお寺で一緒に納骨もしてもらうと父親が言っていました。
こういう事は母親に任せてなので、兄とみんなで調べながらやっている感じなんですが、49日の後の100か日て勿論やっに越したことはないですが、49日と同様大事な法要でしょうか?
調べたら遺族が沢山泣いてこれからは頑張って生活して行きましょうという意味?とかで私達だけの意味が強かったら今やってる人も少なくなったともよみ100か日の法要はいいのかなぁと思うのとでも少し気になり、父親は何もいいませんが、私がお布施等だすし、やらせてと言ったら別に何もいわない感じの父親です。
とりあえず母親には極楽にどうしてもいってほしく、49日後も定期的に家族で仏壇の前で手を合わせてたら大丈夫でしょうか?
極楽に行く行かないは49日までできまるんでしょうか?
もしそうだったらそれ以降に手を合わせていても飢餓の世界とかにいたら少しでもお供えをしたりお花を供えたり手を合わせることで、母親は極楽の方へ行く事出きるんでしょうか?
1周忌もすごく大事な法要とききましたが、これもお坊さんにお経をよんでもらい少しでも故人が楽になれるという意味でしょうか?
ゆくわかっていない所があり教えて頂きますよう宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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供養は亡き人と出会い直す場、迷う私に気づかされる場
ご相談拝読しました。
愛するお母様のご命終に謹んでお悔やみ申し上げます。
南無阿弥陀仏 合掌
亡くなってから七日ごとの法要や49日、100か日等の法要は仏教発祥のインド地方で成立した経典由来ではなく、仏教が中国に伝来しそこで道教と習合する過程で成立した十王経というお経の十王信仰に由来するところが大きい様です。
その考え方は宗派により異なりますので、次に49日にお坊様がお参りされた際に相談して尋ねてみましょう。色んな不安をそのままお伝えいただいてよいのですよ。
仏教一般では追善供養として亡き人が良いところに赴けるように法要の功徳を回向するという考え方が多いのかもしれません。浄土真宗ではそうは考えず、亡き人はただちに極楽に往生するため、七日ごとの法要は故人を偲ぶ場であり、故人が残された人たちに仏教に出会う場を用意いただいたものとして大事にお勤めします。
なので法要を勤めるか否かによりお母様の赴く先が異なるわけではありません。大事なのはあなたの心の中のお母様の存在です。
命を終えて姿形を超えていかれたお母様は、あなたにとってはもうあなたの心の中のお母様と離れて存在するものではありません。
お母様のために何かしたい、あるいはお母様が縁をととのえてくれた法要の場を出来る限り大切にしたいというのであれば100か日法要をお勤めするとよいと思います。
こうした供養は亡き人と出会い直していく場であります。人間としての亡き人を超えて、こんどは仏様としての亡き人に出会い直していくのです。
仏様とは私たちに本当の大事なことを教えてくれる存在です。
「私は先に命を終えていきました。限りある命をあなたはどう生きますか?」
と問うてくださっているのです。亡き人がどうなっているかと心配するのは残された私たち、しかし亡き人本人はただものも言わずこうしてその「死」を通して問いかけてくださっているのです。
迷っているのは亡き人ではなく、生きている私たちなのですね。どうかそのことを心にかけて亡きお母様を偲びつつ、お坊様と相談しながらあなたのご家族なりの供養をして参りましょう。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
法要をしないからといって、極楽にいかないかも?というのではなく、残された家族が母親を毎日思う気持ちの方が大事なんだなと思いました。
なにより、子供の心配をしてくれてなので、心配をかけないよう安心させてあげる事を第一に考えたいと思います。
ありがとうございました。