仏教では趣味は悪いこと?
こんにちは。一年前に仏教を知り、以来本を読むなどして、勉強をしております。そこで、とある疑問があります。
自分は写真を撮ることが趣味です。思い出の場所、大切な人物を写真に残していきたいのですが、仏教だと過去への囚われ、執着になってしまい悪いことになってしまうのでしょうか?
また、お釈迦様は現在の趣味をどのような扱いにするだろうか?というのが疑問です。
ご回答いただければと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
執着にならなければ大丈夫
こんにちは。あちこちの写真を撮られるのがご趣味とのこと、それがSNSにあげるためだったり、マイナスな意味でなければよいご趣味だと思います。写真に執着して顰蹙を買う撮影をされたり、そんな行為には気をつけられて下さいね。私も亡き祖父母や母の写真を所持していますが、懐かしさと同時に、「今、お浄土にいる人に恥ずかしくない日々を送っているか」という自戒にもなります。ただ、知り合いの中には、好きだった人の写真を何十年も持ち歩いて、新たな一歩が踏み出せない、つまり執着にはまる人もいます。そうなると何のための写真か、意味不明になります。
仏教を学んでおられるのですね。お仲間と思うと嬉しいです。お釈迦様は、我が子ラーフラが生まれた時に「子どもが生まれた。束縛が生じてしまった」と言われました。現代的解釈はさておき、出家を頭におかれていたお釈迦様にとってもやはりあわててしまう「執着」となったのだと思います。趣味はないよりあった方がよいと思います。仏教的に何か活動したいな、というような時も、「写真」ということで人とつながれたり、お年寄りですと本当に一生懸命ポーズを作って下さったり、それが会話の手がかりになったりします。お釈迦様のお弟子さんへの扱いをみても、その人の得意とする分野を生かせるように、とされてあるのがよくわかります。もう1つの利点は、もし悲しいことなどがあっても、「よき日の写真」が支えてくれることがあるということです。くじけた時に、大自然や日の出の写真などを見て、何か小さなことで悩んでいるな、みたいに思える、それを癒して力をくれるそんなパワーもあると思います。要は、どのように活かしていくか次第でしょう。共に色々学び、疑問も解決してまいりましょう。南無阿弥陀仏
たしかに過去への囚われや執着は苦しみを生む原因となり良いことではありません。
しかし、心をしっかり制御して、囚われや執着にならないように気をつけるなら問題にはならないと思います。
過去の写真を見て懐かしむ、それはその時だけなら楽しい時間ですが、それをずっと思い続けたら苦しみになります。
そうならないように気をつけてくださいね。
また、最近はインスタなど流行っており、写真を撮って誰かに自慢することを目的として何処かに行ったり、誰かにあったりすることが多いようです。
そのようなことは避けましょうね。
あくまで思い出として撮影しましょうね。
また、例えば登山した時、頂上で写真ばかり撮ってはもったいないですよね。頂上の空気を感じ、景色を感じることを主にしましょう。
写真を撮って他者に自慢して自分の欲を満たそうとする。そういうことが無いように気をつけるなら、写真は良いものだと思いますよ。
悩み苦しみの原因になるかどうか
質問者からのお礼
皆様の回答文それぞれ読まさせていただきました。そして理解し、納得することができました。これからも仏教を学んでいきます。ありがとうございました。