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「坐禅接心の警策で師から痛打された理由」の回答に疑問

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先月末の日付の「坐禅接心の警策で師から痛打された理由」と書かれた質問を読み、回答に疑問を持ちました。

https://hasunoha.jp/questions/37110

回答では先に「怪我があるようでしたら警察に被害届を」とあり、追記で「あなたの受けたものは暴力行為でありパワハラです」と回答が見られました。

質問者が初めて坐禅したような一般読者であればその回答は正論でありますが、質問主は坐禅歴約10年で禅の修行である接心に参禅した30代女性と書かれています。
女性とはいえ接心修行に参加するからには警策で打たれる心得や覚悟は有る筈で強く打たれたとしても暴力行為でありパワハラだとは少しも思わないと推察します。

禅宗で曹洞宗と臨済宗・黄檗宗で警策の使い方に差はあるだろうが、それぞれの僧堂で修行されたお坊さん方が過去の経験談を振り返ってヒントを与えるだけでも読者には有難いと思えますが如何でしょうか。

注)乱筆雑文失礼しました。回答者のお坊さんの批判をしているのではありません。誤解のなきようにお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

坐禅は安楽の法門なり

回答を入れた者です。強い表現を使ってしまいごめんなさい。その理由については以下の通りです。

 この方は坐禅歴10年との事でしたが、当該坐禅堂は初めてとの事で、そこで過去の経験にはないような暴力的行為(と私は受け取った行為)を受け驚いて質問を入れたものと思います。つまり過去の経験から警策に対する心得や覚悟を持ってはいたが、この度初めて門をたたいた坐禅会において、何の落ち度もないのに、心得や覚悟以上の事をされ戸惑っている様子を感じました。

 曹洞宗では過去に僧堂(僧侶の修行道場)において、先輩僧侶による後輩僧侶への暴力行為があり問題になったことがあります。大いに反省しなくてはいけないことです。僧堂での暴力行為が当たり前に行われていた時代に安居(修行)していた僧侶が、自坊(住職をしている寺)において、同じように参禅者に対し暴力行為をしている可能性が高いと判断し回答をしました。当該坐禅堂はその悪しき風習を残したままでないのかと考えています。
 回答のお礼として「新人への可愛がり※」という事で納得されていますので、やっぱり私の目からみたらこれはパワハラだよなぁと思っています。

※「可愛がり」 相撲界の隠語で後輩に厳しい稽古で鍛える事。転じてその名を借りた暴力行為。

 これから坐禅をはじめようとしている人がhasunohaの、当該質問(たくさんたたかれましたという質問)を目にして、それに対し例えば僧侶が「よくある事です」などの回答を入れることがあったとしたら、せっかく坐禅に興味を持った人が尻込みしてしまうかもしれません。そのような事があっては同じ禅宗の僧侶として残念に思います。実際そのように強く連打する作法はありませんし、警策はそのように使うものではありません。曹洞宗の開祖道元禅師は坐禅は「安楽の法門」とおっしゃっています。暴力で制御され恐怖で行うものではありません。そのように考え、あえて強い表現でそのような事は許されない怪我があれば通報すべき暴力行為であると書きました。

 坐禅中に強くたたくことは、悟りには全くつながりません(仏教は苦行を否定している)。本来の坐禅とはいったい何なのか、何の為の警策なのか、今一度考えなおす質問であったと思います。またあなたの質問によってさらにhasunoha読者の理解を深めることになったと思います。ありがとうございました。

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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質問者からのお礼

御回答有難く拝読致しました。

僭越ながら私は逆に、これから坐禅をはじめようとしている人がhasunohaの、当該質問(たくさんたたかれましたという質問)を目にして「怪我があるようでしたら警察に被害届を」とあり、追記で「あなたの受けたものは暴力行為でありパワハラです」との回答を目にしたらどう思うのか? と疑問が浮かんだのです。

・まずは全読者に対して警策の前提を書いた上で 「僧侶が座禅で身体を打つ行為は我が国の社会で永年にわたり認められてきたものですので正当行為(刑法35条)にあたるものとして暴行罪は成立しない」「警策は罰ではなく坐禅の精進および集中するために行われる」

・質問主の女性に対しては、恐らくは自分に落ち度があり強く打たれたのではないかとの疑問を持たれているので踏まえて何らかの回答を示すべきと思いました。 と言うのは私には回答を読んだ女性は「可愛がり」と納得されているのではなく「可愛がり」として新参の立場を受け入れてもらえたという安心感を述べられたと見受けられました。現に「私に落ち度がなくて安心しました」と述べられています。

実際の正解が「可愛がり」なのか判らないが、私が参加した禅会の臘八摂心では初日の開始直後と最終日の最後に老師から総警策として全員に強めの警策が回りました。その意味は「励まし」「ご苦労さん」と簡潔に理解できます。 が、私が質問主の禅会にて同じ状況に遭えば戸惑うのは同感です。私なら終了後に老師を訪ねて理由を聞くが、質問主は聞く勇気がないとしてhasunohaで質問されている。 質問主にも問いたいがそれが女性心理から来るのか判り兼ねるが老師に疑問を聞けないようでは誤解も生じると思われます。

注)今回も乱筆雑文失礼しました。繰り返しになりますが決して回答者のお坊さんの批判をしているのではありません。坐禅修行の作法および警策の在り方について疑問を書き述べさせていただきました。誤解のなきようにお願いします。

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アドラー心理学と禅

法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。

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