死にたいという人たちに怒りが湧く
初めて質問をさせて頂きます。
分かりづらい点などあると思いますが、よろしくお願いします。
人それぞれ人生があって、それぞれの悩みがあると認識していますが、死にたいと口に出したり、文章にする人に怒りが湧いて仕方ないんです。
先日、酔った勢いだと思いますが、友人にも「わたしは死んだ方がよかったんだ」と泣かれました。
お子さんが流れて何年か経っていると聞いていましたし、心が弱くなっているんだろうなとは思えど、その発言が許せませんでした。
そんなこと言っちゃダメだよと、当たり障りなくフォローしていても、話がヒートアップし、次第に「そんなに言うならとっとと死ねば良いじゃん、死ぬ勇気もないくせに!」と苛立ちが湧いてきて。(勿論言ってません)
それ以降、その方とお話しをするのが怖くなりました。いつ自分の口から傷つける言葉が出るかわからないのが怖くて。
文章であれば、目に入れなければ良いのですが、彼女の様に言葉にされた時、どうして良いかわかりません。
怒りが湧いた時、どの様に考えるべきか。どんな言葉をかければ良いのか、もしくは放置という逃げをとっても良いのか、教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
『どうして』。
難しいところだと思います。
「死にたい」という人は
本当は死にたくないのです。
ですから
「『どうして』死にたいと思うのか」
その理由によって
どうすべきか、どう考えるべきか
どんな言葉をかけるべきなのか
変わってくるのだと思います。
その方の場合
詳しくは分かりませんが、
ご自身を責めているのだと思います。
「つらすぎる。死ねば楽になれるかな。」と思ってしまう方々とは違って
「こんな自分は死ぬべきだ。」
というふうに
自分のいのちを責めているように感じます。
煉火さんは「怒りを感じた」と仰いましたが
ほかならぬそのご友人こそ
自分自身に「怒りを感じている」のではないでしょうか。
煉火さんの怒りは
間違っていないと思います。
いのちを軽く見ようとする。
煉火さんの怒りはそれに対する怒りだと思いました。
煉火さんの怒りは、むしろ
いのちというものへの深い敬意を感じます。
だからこそ申し上げますが
生きたい理由がひとつではないように
死にたい理由もひとつではありません。
いのちを軽く見ようとする。
どうしてもしてしまう。
そういう人が目の前にいて
怒りを感じてしまうとき、
その人がどんな理由で
そのような発言をするのか。
絶望なのか呵責なのか
悲痛なのか。
どうか、見取っていただければと存じます。
南無釈迦牟尼仏 合掌