悟ったような性格について
昨年、実母を癌で53歳で亡くしました。
それからというもの、自分の仲で何かを『悟った』かのように落ち着いた性格になってしまいました。
先日も久々に友達に会い、近状について色々愚痴を話してきました。
以前の私であれば、同調したり、割りと真面目に意見したりしていました。
しかし母を亡くしてからは母を亡くす辛さと比較するようになり、友達の愚痴の内容がとても小さくどうでもいい内容に思えるようになったのです(この子は、親を介護したり、亡くしたりしてないからそんな甘えたことを言えるんだ、と思ってしまったり)。
勿論、全てがそうという訳ではなく、真剣な悩みには真剣に考えたりします。
いい意味では、寛大になったと言うのかもしれません。
しかし、どこか諦め癖に似たようなこの気持ちに「このままでいいのかな?」と思うこともあります。
それに、同世代の子の話を聞いていても私だけ年寄り臭い浮世離れした気持ちになることがあります。
私は、このままの私でいていいのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
上を見れば無数の人、下もまた無数也
お若いお母様を亡くされたのですね、癌というものはいかなる年齢であっても可能性があるので本当に分かりません。
さて、悟ったと思い込んでいる状態は悟った自分というものに執着をしているので悟ってはいない
なんて、月並みなことを最初に言っておきまして。
お母様を亡くされた貴方からすればご友人の悩みなど「ちっぽけなこと」でしかないのでしょう。
人にはそれぞれ悩みに割り振られている重要度が価値観や何やらによって変わってきます。
極端に言えば貴方にとってお母様を亡くされたことは「とてもつらいこと」であると同時に、他の人の中には「母を亡くした程度のこと」という解釈をする人もいる、ということです。
これはつまり貴方がお友達の悩みを「甘えたこと」で片づけられることと同じです。
あなたには貴方の辛いことがあった、友人には友人の辛いことがあった、そこに「どちらがより悲しい」という比較出来るような数値はありません、どちらも同じく辛いんです。
貴方のお母様を失われた辛さも、お友達の抱えている辛さもそれぞれが独立した尊重されるべき辛さです。
そう考えてみれば、もう少し相手に寄り添った話の聞き方が出来るかもしれません