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お坊さんについて

回答数回答 1
有り難し有り難し 8

私は毎日祈ります。手を合わせ、座禅をし、写経します。
虐待を受けてきた時も、差別や偏見で区別される時も、私の中の煩悩のせいでそう感じるのだと、言い聞かせてきました。ですが、無くならないのです。
私は、悲しいです。なぜいつも差別され偏見を持たれ区別されるのか、わかりません。
僧侶になろうとも思いました。しかし、その世界にも様々なことがあるのを知って、とても悲しい気持ちになりました。誰でもなれるわけではなく、檀家でもない、大学で専門的なことを学んでからどこかで受け入れてもらいなさいと言われたこともありました。
私の親族のお葬式でいろいろなことをたくさん経験しました。
お経を読んでいただき、ありがたい気持ちでいっぱいでしたが、額が少ないとお礼を返され、やりなおされたこともありました。

なぜなのか、この仕組みはなんなのか、教えてください

2019年10月6日 17:51

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「差別や偏見」の具体的な説明がないので、それについてはわかりません。
僧侶になるためには、僧侶の弟子になる必要があります。
落語家になるのも落語家の弟子になる必要がありますよね。それと同じです。
弟子をとるということは、師匠としての責任も生じますから、知らない人をいきなり弟子に迎えることに二の足を踏むお坊さんは多いと思います。
これは、ビジネスの営業マンと同じように、買ってもらえる相手(自分を弟子にしてくれる師匠)がみつかるまで数をあたるしかないかもしれません。
葬儀のお布施が少ないからと返却されるのは、そのお坊さんにも問題がありますね。
ただ、慣例的に「相場の金額」があるのも事実です。地域によってもお寺によっても違います。
結局は、お坊さんも生身の人間であり、個々にさまざまな事情や生活がある人々です。
お坊さんに何かを頼む場合は、人間対人間のリアルな対話が必要です。

追記
重い体験談、ありがとうございます。
私は、児童福祉に関連する仕事もしていました。
児童虐待に対しては、ここ数年で、行政も警察もだいぶ素早く動いてくれるようになったとは思いますが、今でもそのような劣悪な施設が隠れている可能性がありますね。
誰かが告発しない限り、施設内のことはわかりませんし。
ただ、お坊さんにも色々な人がいますので、「数を当たる」必要はあると思います。

2019年10月6日 22:28
{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

質問者からのお礼

お答えありがとうございます。
差別や偏見の具体的な内容ですか?うちは絵にかいたようなド貧乏な家に生まれました。耳の形が亡き祖父に似ているからと父には4歳のころから17歳まで虐待を受けてきました。周りの大人たちは知っていましたが、しつけだと言って関わりたくないと言って助けてもらった記憶は全くありません。スパナで殴られたり、エアガンで足元を打たれ踊れ踊れとされたり、出刃包丁で切りつけられたりしました。盲腸を患い、入院していたときは、父や母には、入院して一人だけ病院食を食べていい気になるなと、手術して5日で強制退院になりました。実家は雪国でしたので冬になれば雪が降りますが、よく靴も履かせてもらえず、ブリーフ一枚で外に出されたまま家に入れてもらえなかってので、ドラム缶のなかで夜を明かしました。理由は耳の形が祖父に似ているからということだけです。ほかの大人に相談すれば関わりたくないといわれるか、私たちが悪い、私たちがお荷物なのでは?と言われました。
しばらくして児童養護施設に入りました。親の本音は、いなくなってほしいとのことでした。児童養護施設でも暴力はなくなりませんでした。理由は、周りより真面目に部活に取り組んで成績を出しているからでした。職員や児童になぜかいきなり殴られたり、職員の派閥争いで無視されたり和に入れてもらえなかったりでした。
夜になると年上の児童から暴力の後の性的虐待を受けました。男子が男子を処理しなくてはならず、私だけでしたが、1日に3人の時もありました。何度も逃げ出しました。でも生きていくすべがないし、結局、脱走犯として捕まり、躾という虐待を受けてきました。

でも、その人たちは、虐待してきたりいじめてきたり性的暴力をする人達は悪くないと思っています。

はけ口がなく、都合のいいはけ口が私なだけ、苦しいけどつらいけど、されてしまう対象になる私が悪いんだ、辞めたければ死ぬしかない、でも死ねない・死ぬ勇気がない、そんな学生時代でした。

社会に出てからは暴力がなくなりましたが、ほかのことが増えました。
人と比べるのが当たり前の社会だったり、言葉ではとてもきれいなんです。一生懸命、丹精込めて、人生かけて・・・裏では・・・ということばかりでした。相手を悪く言ったりと、大人ってこうなんだなって理解していました。
そのことをお坊さんの相談に行きました。私はどう乗り越えたら良いですのか・・・ところが、檀家じゃないからお答えできません、坊主のも限界があります、なんでも頼らないでくださいとのことでした。上のお坊様がそういうのでと、ほかのお坊様もお答えいただけませんでした。仏教には忘故利他という言葉があります。それには檀家という、選ばれた人しかだめなと今でも理解しています。
六波羅蜜の実践でお布施や心の在り方、生き方が認められた人しかだめなんだなって理解したときに、お寺にいてもお坊さんとは一方的な説法しか聞けない理由がなぜか腑に落ちました。信じる者が同じでもいろいろなところに上下が存在する、仏の心理を理解していても人だからフラットには見ていないんだと理解しています。

でも、間違っていると思っています。
どうしてフラットではないのでしょうか。同じ人なら、尚更ではないですか?
富める者は宗教にすら優遇され、貧しいものは冷遇される。それこそ、差別や区別ではないですか?仏さまにすがる、それがわたしの生きがいでした…。

「お坊さん・僧侶全般」問答一覧

乞食と喜捨に関する考え方

こんにちは、托鉢や乞食に関して、周囲の理解を得たいです。 私は地方都市に住んでいるのですが、街中でよく托鉢を行う人を見かけます。 お財布にゆとりのある時には小銭程度ですが、托鉢を行う方にお分けする事もあります。 …しかし、基本的に一緒に居る連れにはいい顔をされません。 「仏教には喜捨という概念があって、捨て去る事を有り難いと思う、そういった機会を与えてくれる事に感謝するっていう考えがあるんだよ」と説明はするのですが、あまり納得してもらえません。 私は小額で人の為になれれば嬉しい、そんな程度の考えで托鉢をなさる方に施しをします。 ですが、連れには大体の場合、「ああいうのはホームレスとかが僧侶などに変装してやっている。何も知らない人の善意を踏みにじる行為だからそんなものに手を貸すなんて」という具合の反応を返されてしまいます。 連れの言いたいことはわかります。ですがそもそも喜捨に関しては相手が誰だろうと関係ないものと認識しています。 しかし、それを連れに言ってしまうのまるで大事な連れを分からず屋扱いしてるような言葉になってしまいそうな為、いつも「小銭でも喜ぶんだからいいだろ」と終わらせます。しかしその言葉もまた托鉢をしてる方を、私が悦に入るための道具扱いしてるようであまりいい気分ではありません。 ところで私は敬虔な仏教徒ではありません。 人の為にどうのというのも、昔やっていたボーイスカウト活動にて「困っている人を助ける機会は善行を積む機会を頂ける」という考えを持っているからです。(この辺りは喜捨と似ているかもしれませんね) そのせいもあって、あまり詳しい仏教的な教えなどは語れなくもあるのです。 長文乱文になってしまいましたが、要は人は助け合うべきものであり、自分もいつホームレスの方々のようにモグリの托鉢や乞食をせねばならなくなるかわからない以上、誰かに何か出来る時はしておくべきだと思うのです。 こういった考え、仏教的な価値観を持たぬ身近な人に、角を立てずにわかってもらうにはどうしたらいいでしょう? わがままな話ですが、友人は大切なので「アイツは変わり者だ」と思われて距離を置かれるのも、「なんだか面倒くさいヤツだ」と思われて距離を置かれるのも嫌なんです。 支え合いこそ人類の本質にして美徳、そして自己のためでもあるのだとただわかってもらいたいのですが……

有り難し有り難し 15
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坊さんなのにこれからの将来が見えない

実家が寺で、仏教系の大学に通っている僧侶見習いです。 僧侶が社会システムにおいて必要とされる意義が「人に仮初の夢を見せて心のケアをする」以外しか見いだせなくてこれからの将来に絶望しています。 僧侶は、昔みたいに医者の代わりや教員の代わりをする訳でもなく、月回向や葬儀関連で人々の心を慰めるくらいしかしていません。 僧侶が利益(りえき)を得ることを人々は否定します。実際、聖職であるが故に本来は金銭を対価に何かをするというのはあまりに俗に塗れているような気がします。布施はそれ自体が神聖なものであることは分かっています。 しかし結局のところ、(観光という商売をしている寺は除いて)寺やそこにある僧侶という存在は「嘘をついて金を檀家さんや信者さんから貰う」ものに過ぎないのではないか?と思ってしまっているのです。 道徳を説くならそれはカウンセラーでも哲学者でも構わないわけです。 では僧侶が持つ他とは違うアイデンティティとは何かと言ってしまえば「仏教という仏になる為の指針」なのですが、結局のところ今の今まで人の身で完全に釈尊(応身)と同じステージに立った者もいない訳で。 本当に仏となることが出来るかも分からない教え、しかも数多の偽典があるであろう経典の内容を引いてきて、悩める人々に滔々とそれを説く。自分の中ではこれから自分がなる僧侶という職は、そんなもののように思えてしまいます。 私よりも遥かに経験を積み、たくさんの経典を読んだここにいらっしゃるお坊さんの方々に、私の悩みをただ、聞いて欲しいです。そして願わくは、自分の中の仏教に対する、僧侶に対する悪感情を解く何かを教えて欲しいです。 散文的になってしまい、申し訳ありません。宜しくお願いします。

有り難し有り難し 62
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