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お坊さんについて

回答数回答 1
有り難し有り難し 10

私は毎日祈ります。手を合わせ、座禅をし、写経します。
虐待を受けてきた時も、差別や偏見で区別される時も、私の中の煩悩のせいでそう感じるのだと、言い聞かせてきました。ですが、無くならないのです。
私は、悲しいです。なぜいつも差別され偏見を持たれ区別されるのか、わかりません。
僧侶になろうとも思いました。しかし、その世界にも様々なことがあるのを知って、とても悲しい気持ちになりました。誰でもなれるわけではなく、檀家でもない、大学で専門的なことを学んでからどこかで受け入れてもらいなさいと言われたこともありました。
私の親族のお葬式でいろいろなことをたくさん経験しました。
お経を読んでいただき、ありがたい気持ちでいっぱいでしたが、額が少ないとお礼を返され、やりなおされたこともありました。

なぜなのか、この仕組みはなんなのか、教えてください


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「差別や偏見」の具体的な説明がないので、それについてはわかりません。
僧侶になるためには、僧侶の弟子になる必要があります。
落語家になるのも落語家の弟子になる必要がありますよね。それと同じです。
弟子をとるということは、師匠としての責任も生じますから、知らない人をいきなり弟子に迎えることに二の足を踏むお坊さんは多いと思います。
これは、ビジネスの営業マンと同じように、買ってもらえる相手(自分を弟子にしてくれる師匠)がみつかるまで数をあたるしかないかもしれません。
葬儀のお布施が少ないからと返却されるのは、そのお坊さんにも問題がありますね。
ただ、慣例的に「相場の金額」があるのも事実です。地域によってもお寺によっても違います。
結局は、お坊さんも生身の人間であり、個々にさまざまな事情や生活がある人々です。
お坊さんに何かを頼む場合は、人間対人間のリアルな対話が必要です。

追記
重い体験談、ありがとうございます。
私は、児童福祉に関連する仕事もしていました。
児童虐待に対しては、ここ数年で、行政も警察もだいぶ素早く動いてくれるようになったとは思いますが、今でもそのような劣悪な施設が隠れている可能性がありますね。
誰かが告発しない限り、施設内のことはわかりませんし。
ただ、お坊さんにも色々な人がいますので、「数を当たる」必要はあると思います。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

お答えありがとうございます。
差別や偏見の具体的な内容ですか?うちは絵にかいたようなド貧乏な家に生まれました。耳の形が亡き祖父に似ているからと父には4歳のころから17歳まで虐待を受けてきました。周りの大人たちは知っていましたが、しつけだと言って関わりたくないと言って助けてもらった記憶は全くありません。スパナで殴られたり、エアガンで足元を打たれ踊れ踊れとされたり、出刃包丁で切りつけられたりしました。盲腸を患い、入院していたときは、父や母には、入院して一人だけ病院食を食べていい気になるなと、手術して5日で強制退院になりました。実家は雪国でしたので冬になれば雪が降りますが、よく靴も履かせてもらえず、ブリーフ一枚で外に出されたまま家に入れてもらえなかってので、ドラム缶のなかで夜を明かしました。理由は耳の形が祖父に似ているからということだけです。ほかの大人に相談すれば関わりたくないといわれるか、私たちが悪い、私たちがお荷物なのでは?と言われました。
しばらくして児童養護施設に入りました。親の本音は、いなくなってほしいとのことでした。児童養護施設でも暴力はなくなりませんでした。理由は、周りより真面目に部活に取り組んで成績を出しているからでした。職員や児童になぜかいきなり殴られたり、職員の派閥争いで無視されたり和に入れてもらえなかったりでした。
夜になると年上の児童から暴力の後の性的虐待を受けました。男子が男子を処理しなくてはならず、私だけでしたが、1日に3人の時もありました。何度も逃げ出しました。でも生きていくすべがないし、結局、脱走犯として捕まり、躾という虐待を受けてきました。

でも、その人たちは、虐待してきたりいじめてきたり性的暴力をする人達は悪くないと思っています。

はけ口がなく、都合のいいはけ口が私なだけ、苦しいけどつらいけど、されてしまう対象になる私が悪いんだ、辞めたければ死ぬしかない、でも死ねない・死ぬ勇気がない、そんな学生時代でした。

社会に出てからは暴力がなくなりましたが、ほかのことが増えました。
人と比べるのが当たり前の社会だったり、言葉ではとてもきれいなんです。一生懸命、丹精込めて、人生かけて・・・裏では・・・ということばかりでした。相手を悪く言ったりと、大人ってこうなんだなって理解していました。
そのことをお坊さんの相談に行きました。私はどう乗り越えたら良いですのか・・・ところが、檀家じゃないからお答えできません、坊主のも限界があります、なんでも頼らないでくださいとのことでした。上のお坊様がそういうのでと、ほかのお坊様もお答えいただけませんでした。仏教には忘故利他という言葉があります。それには檀家という、選ばれた人しかだめなと今でも理解しています。
六波羅蜜の実践でお布施や心の在り方、生き方が認められた人しかだめなんだなって理解したときに、お寺にいてもお坊さんとは一方的な説法しか聞けない理由がなぜか腑に落ちました。信じる者が同じでもいろいろなところに上下が存在する、仏の心理を理解していても人だからフラットには見ていないんだと理解しています。

でも、間違っていると思っています。
どうしてフラットではないのでしょうか。同じ人なら、尚更ではないですか?
富める者は宗教にすら優遇され、貧しいものは冷遇される。それこそ、差別や区別ではないですか?仏さまにすがる、それがわたしの生きがいでした…。

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