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長年付き合っていた人にふられました

回答数回答 1
有り難し有り難し 17

9年近く付き合った、家族のような存在だった彼に彼女が出来て振られてしまいました。遠距離でした。
仕事の任期での退職が近付き、退職を機にこれから結婚しようという話しをしようと思っていた時に言われました。振られて1ヶ月近く経ったのですがずっと泣いています。
悩み相談に乗ってくれた異性の方が居て、その人に寄り添ってしまいたいたかったけれど、それも叶いそうになく、仕事も恋愛も自信も全てなくなってしまいました。
毎日苦しくて背中が重く、涙が込み上げてきます。
どうか、励ましのお言葉をいただけないでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いつも恋愛は設定ありのドラマ

小学生時代には小学生時代に好きな人がいて、
中学生時代には中学生時代に好きな人がいて、
高校生時代には高校生時代に好きな人がいて、
大学生時代には大学生時代に好きな人がいて、
大人小学生時代には大人小学生時代に好きな人がいて、
大人中学生時代には大人中学生時代に好きな人がいて…、
そして、
大人人生のそこそこで出会った人を最高だと思い、この上ない人だと思うそのその心こそ永遠の学生なのです。
恋は誰も教えてくれませんし、人が何かを教えてくれても自分が学ぶしかありません。
人生やり直しはきかない。
小学生でも中高生でも完全燃焼。
今、何歳か誰もが知らないままに過ごしていますが、最高に完全燃焼して、今日は昨日ではありませんから、今日を最高に完全燃焼するよりほかにないのです。
あなたが自分の中でこれは良かれ、この人は良かれと思っても、相手は相手。
5年目は5年目の付き合い。
8年目は8年目の付き合い。
9年付き合っても今日は今日。
あなたはあなた。
相手は相手。
あなたは今日は今日の今の状態がある。
これを今日読むのと明日読むのとでもまた変わる。
脳内エフェクトは今日と明日とでまた違う。
9年付き合って別れたというのは本当は深い意味では嘘ともいえる面がある。
8年と数ヵ月付き合って、それはどうでもいいとして、その時はその時でたまたま一緒にいただけ。
それが、交渉決裂して別々の生活をしているだけ。
付き合っていた時も、それぞれ時には別々の付き合いをしていただけ。
だから、今もその人とは関係なしにあなたはあなたの今日を全自動更新中。
今は取り返しの効かない今のタイミングの今を生きているのだから過去の条件などどうでもいいのです。
自分の脳みそが過去の情報や条件付けにとどまっていたいということを選択している。
私も先ほどまで家族と過ごしていましたが、今は今のLIVEをROLLINGしています。
人生は止まっていても無常ローリングしているのです。
人生は現前の常ならざるLIVE中継の無常の法の川の流れに心底身を任せる(頭を捨てて今の事実に目を向け今の出来事に脳内リンクする)ことで執着は離れます。
別れてもいつまでもずるずる引きずらせるような相手であればそれは付き合うに値しない相手です。
あなたのパートナーはあなたが焦点を合わせる自分自身。
焦点を合わせてズレたのであればそれも真実。✨

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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