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高校生の恋愛について

回答数回答 2
有り難し有り難し 11

高校一年生の息子のことなのですが、同じ学校の子と付き合っています。
女の子と付き合うことは反対ではないのですが、
うちのルールとして
’体の関係は持たない‘
’お泊まりは禁止‘です。
各家庭によって考え方は様々だと思うのですが、相手の家があまりにも自由奔放で困っています。

相手の家に時々遊びに行くのですが
’お泊まりしよう‘ の誘いが激しく、息子が 無理だよ と断ると
’もういい 消えろ うざい‘と暴言の嵐です。

お泊まりの件以外でも すぐに機嫌を悪くして暴言を吐きまくり その度息子は落ち込んでいます。

彼女を怒らせたくないのでしょうが、最近嘘をついて出掛けるようになりました。
少し前 ’我が家のルールが守れないなら出て行けばいい‘とケンカをしたのですが、
その時相手の親が’月一万円払うならうちにいてもいいよ。‘と言っていたそうです。

息子には、どうしてだめだと言うのか 理由を説明しながら何度も話し合い、その時にはきちんと納得してくれているように見えます。
でもやはり相手に誘われると 断るのは至難の業です。

相手が いつも冷たい態度をとって、息子が疲れて 相手から心が離れてくれるのを望んでいるのですが
ものすごい暴言を吐いて ’もう無理だから別れて!‘ と迫っておいて
息子が ’…わかった‘ と別れに同意しようとすると、
’○○のことは別に嫌いじゃないけど。‘
と甘えだして 元通りです。

本当は相手と親に直接話をしたいのですが、それをしたら息子がキレて逆効果になってしまうと思います。
(相手とは同じクラスです。)

もうどうして良いのかまったくわかりません。
自分の心の中にも 悪い感情が増えるばかりで悲しいです。
助けて下さい。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

昨今の事情

質問拝見しました
なかなかな難しい時期だと思います。
親の介入と自身の自立とどこで線引きするかは思案のしどころですね。

しかし、昨今の学生さん達は恋愛を「めんどくさい」と言ってしない傾向があるそうです。
それを思うとご子息さんは、めんどくさい彼女と良くやっているのでは無いでしょうか。

ここで考えられる方法は2つ分かれさせるか、本人に任せるかですね。
どちらもリスクがあります。無理やり別れさせて、心の傷になるか、本人に任せて子供を授かったら、それも大事に成ってしまう。

ここは一つの親としての意見を一切言わず、ご子息さんの考え方や、心の内をシッカリ聞いてみるのが良いと思います。
ここで大事なのは、最後まで口を挟まずに聞く。そして、最後まで聞いても、こちらの意見を一切言わない事です。
最後は「あなたの考え方や思いは分かった」
と、全てまるまる受け止めてください。
こうする事で、まやぼさんには判断をするための情報を得る事ができます。
情報が無ければ良い判断を下す事は出来ません。
まずは情報収集とコミュニケーションのために話を聞いてみてください。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
私は日蓮宗 今治 寺町法華寺の住職をしております讃岐英昌(サヌキ エイショウ)と申します。 今現在 しゃべって話せる僧侶を目指し精進しております。
相談時間は基本30分とし、30分を経過すると一度、電話を切らせていただきます。

ほっといてあげましょうよ

そろそろ、子供に任せてみたらどうでしょうか?
しばりつけることで一番苦しんでいるのはあなたです。
あなたのルールをあまり子供に強要しないことです。
家庭が壊れるのは人間のルールによってです。
自分にとって、コレ良かれルールが相手にはシバラレ、拘束、束縛にしか感じないことがあるのです。
尊厳を認めてあげてください。
子どもはあなたの所有物ではないということを、少しずつ、ほどいていく。
遅かれ早かれやがて子供は親から離れていかなければいけない。
その為の前段階です。
1から10まで管理しない事。
生きて、健康で、笑ってくれてりゃイイくらいにどーんと構えていましょう。 

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
こちらも 何とかわかってほしくて必死で話してしまうので
100%聞き出すこと、頑張ってみたいと思います。

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