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仏教を極めると廃人?

回答数回答 1
有り難し有り難し 6

不幸なので仏教を極めるようになりました。
しかし思ったのが極めると廃人に近くなっています。また不幸になりますし、幸福にもなりません。結局悟りなんてないんじゃないかなと思います。
心の捉え方?が幸せを作るのなら全身火傷で油を24時間塗られるような人も捉え方で幸福になるのかな?と思います。結局嫌な事が続けば油を皮膚に塗られるようなものだなと思います。

・執着をなくしていきました、すると殆ど希望がなくなりました。
どうでも良くなるので、他人に対して無意識なく悪意を放ってもどうでも良くなりました。

社会としてやらなくていけない事の執着も放棄しましたし、他人への諦めも増えました、適当に執着せずに諦めることにしました。

・異性とも縁を切り執着を捨てました、次は子孫繁栄の執着を無くそうとパイプカットも考えています。

・色んな人から罵声を浴びせられても執着を失くし、善の心で接しました。
親切が殆ど仇になっても執着を失くし優しくしました。

・それらを毎日耐えながら、理不尽なことを受け入れたり、嫌なことを受け入れて人から馬鹿にされて夢も叶わず、嫌な仕事で死ぬほど苦しみ家族から除け者にされ辛い病気で苦しんでも、、、お坊さんの皆さんは毎日食事ができて、寝れる環境があれば幸せと言います。本当にそうでしょうか。普通に動物でも縄文人でもシリアの人でも毎日食べられるし寝れる環境はあります。
本当に苦しみが毎日あってて苦しんでそれに耐えるために何十時間も一日苦痛を浴びるのに食べる事が幸せ???本当に?

お坊さんとか高い車乗ってる人とかいるけど本当に執着捨ててるの?本当に?

執着を捨てるというのは→
・夢も捨て毎日の意味がなくなる(明日生きる意味や希望すら消失)
・他人から虐げられるの肯定(本当に毎日虐げられて満足するの?執着せず毎日虐げられて満足できるの?)
無駄な努力に向かう人生への肯定(人生かなり苦痛な労働とか嫌な理不尽な事とかも執着を捨てて毎日何十時間も苦しみに耐えながら何を拠り所に生きればいいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたの実際はどうでしょうか

ご質問の内容は、実際のあなたの状態なのでしょうか?
それとも、少々極端なケースを想定して言われているのでしょうか?
んー、たとえば、実際のあなたには、今の1秒間に、耐えられないないような苦痛はあるでしょうか?
多少苦痛や悩みがあっても、1秒間は耐えられるなら、次の1秒間も耐えられる。それを繰り返していけばけっこう生きていけるかもしれません。
また、全身火傷など耐え難い苦痛が生じたら、その瞬間にショック死するはずだから、そのときはショック死すればよいだけだと考えてはどうでしょうか?
で、たとえばお釈迦様は、80歳まで生きられ、最後は腰痛や喉の渇きなど、肉体的な苦痛もありました。
しかし、人々から尊敬され、虐げられはしませんでした。
亡くなったあとは、複数の国の人々がお釈迦様の遺骨を欲しがり、国々に分配されるほど、人々から人気があったのです。
仏教を極めた人は、人々から尊敬され、人気ものになります。
それほど、仏教は人々から好かれる教えなのです。
だから、仏教を極めてみたら、意外と、他人から虐げられたりすることもなく、おだやかに暮らせるようになるかもしれません。
チベット仏教など、虐げられている人々もいますが、それでも彼らは生きていますし、海外の人々からは尊敬されていると思います。

追記
格差は、複雑な因縁や前世からの業もありますよね。
悟りとは、煩悩がなくなること。煩悩については仏教でリストがあります。
全ての煩悩をなくせばブッダと同じ境地ですが、一部の煩悩をなくしたり、煩悩をなくしてなくても煩悩の制御ができるだけでも、人生の悩み苦しみは激減します。
悩み苦しみの原因(煩悩)を消したり制御したりすることが可能だと、お釈迦様は発見されたのです。
煩悩だって滅びることは可能なのです。それ(煩悩の消滅)を悟りと呼ぶならば、少なくとも理論上、悟りは可能ではないでしょうか。

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有り難し
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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

大半は私の出来事であります。
全身火傷の人が同じような質問をしたらショック死を我慢するだけだ!とお答えするのでしょうか?

勘違いされてるかもしれませんが私は仏教を否定してるわけではなく、悟りを求めており、疑問への答えを渇望してるのです。

執着を捨てることへの比喩表現であります。
なぜ同じような事をして誰にも尊敬されず虐げられるのでしょうか。それこそ称賛に執着はしてませんが矛盾しておりませんか、なぜある人はそうなり、ある人はそうならないのでしょうか。

そういった格差もあるのですか?
もちろん賞賛への執着も無いので欲しいわけではありません。
そんな格差があるのって意味不明じゃ無いですか。

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良い人・優しい人が損する理由

YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

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