hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

ネガティブな自分

回答数回答 1
有り難し有り難し 13

前回も夫婦関係の事で 相談させて頂きました
授かり婚でしたが、流産、解雇、主人の嘘が重なり
新婚でノイローゼ状態になりました。
1年程でパートに出られるまで回復したものの
主人への怒りと、許せない自分、前向きになれない自分に苛立ち、
周りは出産ラッシュで 家庭は賑やかで楽しそうです
結婚、妊娠報告を受けるたび
どうしてウチは、上手くいかないの…と悲しい気持ちになります。

お互いに思いやれず すれ違い
喧嘩ばかりになり
その度に 離婚 のセリフが出ます。

主人は優しい人ですが
優しさ故に よく嘘をつきます。
半年後くらいに辻褄が合わなくなってきて
私が我慢できず聞くと
謝るではなく、責められたと感じて殻に閉じこもり
の繰り返し。。

なんだかすっかり疲れてしまって
楽しみも感じなくなってきました。。

目標もなく なんだか虚しい気持ちです。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

🍑脱ネガティブの秘策は「最高のリアクション〇人」になること

ネガティブ思考ってリアクションを変えればいいだけなのです。
リアクションと言えばリアクション芸人で喩えてお話しますと、
(# ゚Д゚)「押すなよ、押すなよ!」
「どん。」
ばしゃ―ん。💦
「熱っ!アチチ!」
芸人さんのリアクションでさえも笑いに導こうとする向かう先があるでしょう。
では、私たちのリアクションの向かう先はどこか。
そこを考えましょう。
仏教で菩提心を説くのは向かう先、導き先を最高のものにしなさいよと教えてくれているのです。
「押すなよ!押すなよ!」
どん!
「(# ゚Д゚)アチチ!何しやがんだよ!押すなって言っただろ。」
「えー、押すのかと。」
「やけどしたじゃねーか、どうしてくれるんだ!」
「台本通りにやれって言っただろ!」
🎤ちょ、お二人ともケンカを止めてください…。
📹いったんCM 入りまーす。
ケンカしたままだとみている方も感じ悪いものです。
では、最終的にどこへ持っていけばいいのか。
仮に険悪なリアクションをしてしまったとしても最終的にケンカするフリをして
男同士でチューして笑いを取ったりするのがお笑い芸人の導き先です。
仏教の導き先はどうか。
それは私たちも相手もたとえ嫌いな相手であってもより良い心へ「共に」向かっていく姿勢です。
それが菩提心の方向性です。
仏教心の向かう先であり、人間、人類、個人の心が向かうべき最高の心です。
人間はつらいことが続いてしまうとし善意悲しいリアクションを取ってしまうものなのです。
さぞかしお辛いことが続いてきてしまったのでしょうね。
ですが、それもここでおしまいにしましょう。
そして、さらには今後何があっても平気になれるようにしましょう。
そのためにもあなたのリアクションの向かう先を自分でもうお池にハマらない方向へ向けるのです。少しでもあなたの心を今から明るい方向、あたたかい、やさしい日のあたる方角へ向き直してあげるのです。
百人が同時に同じ災害に見舞われた時。
その直後に向かう心の反応、リアクションはそれぞれ異なる、ということなのです。
あなたを苦しめないためには、あなたの心を最高のリアクション芸人ならぬ、最高のリアクション道人にしてあげてください。
それは、今日から。今から。
ちなみに仏道において最高のリアクションは授かることを授かるままに。
手を付けないことです。
流れてくるモモを拾わない。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様

ご回答ありがとうございます。

もう悲しい気持ちになるのが嫌で
悲しい気持ちにならない方法を探していました。

リアクションを変える
チャレンジしてみます。

煩悩スッキリコラムまとめ