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仏教の世界では幸せはみんな平等ですか。

回答数回答 1
有り難し有り難し 10

これまで亡くなった人のことを考えてみました。
おぼれている人を必死に助けようとして、自分がおぼれ死に、助けた相手が助かったという人。
美人に生れて演劇の世界で頑張ったが、男にむちゃくちゃにされて(詳細は不明ですが)亡くなった人。
お金持ちと結婚し、月に100万円まで自由に使える身だったが、嫁姑、親戚関係そのたもろもろで相当な苦労をし、精神を患った人。
いろんな人がいますね。
いろんな人の死に、何か意味があるような気がして、不思議な感じがします。
仏教の世界では、幸せか不幸かについては、みんな同じなのでしょうか?
わたしは普通に生きて普通に長生きして死にたいです。

2019年11月9日 19:44

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

幸せって何でしょう・・・?

貴女がおっしゃるように、現世(この世)では「幸せな人と不幸せな人」がそれぞれいますね・・・。〈普通に生きて普通に長生き〉…仏教では最高の「幸せ」と考えます💛。
不幸せな人って、妙に次々と悪いことが起こります・・・😢。でも、それが「どうしてなのか」誰も分かりません。ちなみに「前世の因縁が悪い」などといって、物を売りつけたり、「供養」を強要する場合もあります・・・。気を付けて下さい、益々「不幸」になります・・・。
で、悲しいことに、現世では「幸せは平等」ではありません。その「不平等」を何とかしようとしたのが、お釈迦様の教えです。
要するに、「本当の幸せとは何だろうか」と考えながら、現実社会の「不平等を正していこう」と努力することです。
で、私見ですが、最終的には、亡くなることによって「平等」な世界に生まれるしかないと思います。(死は誰にも平等に訪れますから…)。
最後に、「幸せ」とは本来「仕合せ」と書いて、❝(一生)仕(える事や人に出)合えた❞という意味です。どんな「不幸なこと」になっても、それを受け止め「忍辱(にんにく);我慢する、耐え忍ぶ」して、人生を全うするのが、本当の「幸せ=仕合せ」です。貴女もこれから色々なことに巡り合うでしょうが、それを乗り越えて、有意義な人生を歩んで下さい。祈っております。合掌 南旡阿弥陀仏

2019年11月10日 12:14
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有り難し
おきもち

おきもちが子供達の笑顔になりました


質問者からのお礼

「幸せ」とは「仕合せ」と言うんですね。どんなつらいことも受け入れて乗り越えて行ける・・・といいですね。精神病にならない程度になら我慢するのもいいのかもしれません。ところで、わたしは、嫁ぎ先で、嫁いびりに遭っていて、自分の作ったものを「そんなひとの作ったものなんか食べたくない」と見向きもしてもらえなかったのですが、仏教の教えでは、「いただきます」とは「いのちをいただく」という意味ですということを、家族に伝えたところ、食べてもらえるようになりました。仏教の教えって深いですね・・・。

「因果応報」問答一覧

因果応報なのでしょうか

私は3年前に夫がいるにも関わらず、既婚者の男性と不倫をしておりました。私の妊娠を機にお互いの配偶者に知られる前に別れ、現在は別々の道を歩んでいるところでした。 少し前に人づてに聞いたのですが、彼が奥様と不妊治療の末待望のお子様を授かったようです。しかし、臨月にお腹の中でお子様の心臓が止まってしまい死産をされたというとても悲しいお話でした。 奥様も彼もとても傷ついていると思います。そして、これは私との不倫による因果応報なのでは、と思うようになり、過去の不貞により元々夫と子供に対して罪悪感はありましたが、その話を聞いてから毎日毎日私のせいだ、という罪悪感で頭を支配されています。親が行った悪行は子に返る、と聞いたことがあります。私と関係を持っていなければ彼の子は元気に生まれてきたのではないか、私はなんてことをしてしまったのかと、日々苦しくて仕方ありません。また、私の子供にも何か起きたらと恐怖心が付き纏います。私は今、幸せです。でも幸せになってはいけないのではないかと感じます。もう一生心から笑えることはないのではないかと感じます。こんな母親で、こんな妻でいいのか。奥様の気持ちを考えると死にたくなります。私はこれからどのように生きていけばよいのでしょうか。

有り難し有り難し 20
回答数回答 1

いじめた罪悪感と因果応報

長文失礼します。  私は小学生の頃、いじめをしてしまいました。掃除場所が一緒になった男子生徒で、その子は私と同じクラスでした。(A君と呼ぶことにします)  最初は普通に仲良く話していました。しかし、しばらくして同じ掃除場所の女の子たちがA君をゴミ呼ばわりするようになりました。  わたしはそれに便乗してゴミと呼ぶようになり、挙げ句の果てにA君に丸めた帽子を投げつけました。それも二回も。 A君は当然怒り、私に足払いをかけました。そのため私は転倒し、びっくりしたため、以来彼とは話していません。   その後、私はクラス内で人間関係がうまくいかなくなり、クラス中から露骨に嫌われた態度を取られるようになりました。( 私が配膳したお椀を受け取らなかったり、ふきん係で机を拭こうとしたら拭かれたくもないからいいと言われたり)  中学に入ってからも、特に何もしていないのに悪口を言われたり、気持ち悪いと机を離されたりしました。途中家の都合で転校しましたが、転校先でも悪口を言われました。  高校に入ってから、ようやく悪口と嫌がらせがなくなりました。が、最近過去のことを思い出すようになり、私があの時いじめてしまったから、因果応報で私もいじめを受けたのではないかと考え、後悔でいっぱいの気持ちになります。  受験ストレスもあるせいか、ずっと憂鬱な気分です。あの時謝ればよかったのですが、転校のためもう会う機会はありません。  正直辛いです。どうしたらいいのでしょうか。

有り難し有り難し 31
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因果応報の手前勝手な解釈が蔓延った理由

結果には原因があり、それは等しく誰にでもあるものですが、巷にはあれだけ悪いことをしたのだから、因果応報であいつは不幸になるよと言う嘘がまかり通っています。 元々自分を高めるための思想であった、因果応報が相手に不幸が訪れることを望むような因果応報に何と言うか劣化しています。 物事すべては原因があって結果がある。 その程度の意味であるはずの因果応報が、いつの間にか善行や悪行と言った、その時代にあった、変化のある価値観に毒されるとこで本来の意味を失っている気がします。 絶対善や絶対悪が無い中、意味のない独りよがりの善行に縛られ、生きることに本来の因果応報はないのではないかと考えています。やったことの責任や、今の状態に対する責任は自分でとれよと言う程度だとの認識です。 悪行を重ねようとも、幸せな人間はたくさんいますし、善行を重ねようが不幸な人間はたくさんいます。結局のところそれが身の丈にあった選択であったかと言うことに尽きます。心の持ちよう一つです。 誰かを助けて食うに困りそれが不幸だと思えば不幸ですし、誰かを騙し、殺し、奪いしてもそれで幸せだと感じる気持ちがあれば、幸せです。 自分を気持ち的に制御するのは自分。 なので因果応報の意味がああ恣意的に解釈されるようになった理由が非常に不思議です。 因果応報で相手が不幸になる的な、本当になんの論理性もない風説が流布された理由をご存知の方がいたら教えてください。

有り難し有り難し 15
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