生きるのがツラい
2016年には入ってから立て続けに悪いことしか起きてません。物や人、環境など失ってばかりいます。特に人と環境の喪失は心をズタズタにされます。まず恋愛として好きだった人とのお別れから始まり、次いで大好きだった居場所の1つの部活を辞めなければいけなくなりました。
上下関係がなく互いに意見を言い合うという部活の方針と私の考えも合致していたのでありのままで活動していました。だから先輩に最近感じたことを指摘しました。すると、私の活動スタイルを否定するだけでなく、活動姿を見ていない口ぶりに「私のプライベートの姿=活動姿」と決めつけられ、言葉を失いました。
加えて、仲のいい後輩との関係に文句を言う同学年の子。当事者の後輩くんは「周りなんて気にしなくていい。僕は先輩の味方です。」と言ってくれましたが、陰口を言う同学年の彼は部員全員に広め、ある程度の人はそれを信じ、私を軽蔑した目で見てるのかと思うと苦しいです。
もう1人仲の良い後輩ちゃんは何故か私を避けており、私のこと怖い?って聞いてもそんなことないです!って言って気持ちを隠されました。
先輩後輩に限らず部活の仲間に信頼・絆を勝手に感じていた私は勘違い野郎だったんだ。私だけのうのうと過ごしていたのか。と悲しさから虚しさと疲労、部活にいることの苦痛を味わいました。
私は部活だけではなくて、こういうグループ活動において個々の価値観、考え方があっていいと思うのです。そして互いにぶつかることも大切だと思ってます。何より自分の言葉に責任を持つことが大切だと。
彼らの言葉には責任も重みも感じられません。先輩や同学年の言葉は全て「噂で聞いたけど」という言葉ばかり。自分が聞いたことでもない、自分が考えたわけでもない、そんな中身のない言葉で傷つけられ、周りを気にした上辺だけの関係にする彼らが分からないです。
ぶつかり、互いを知り、理解し、個々を尊重し、互いを認め合う。しかしそれは堅くない深く考えず、柔軟に考えていくのが活動としては理想的なのではないか。
それは常に訴えていましたし、それを目指して活動していました。
でも、先輩を尊重した後輩らしい意見にしろと理解もされず、すべて否定されました。もう疲れました。何がいけなかったのでしょう。私は何か間違えた考え方だったのでしょうか。
我が強い
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
間違ってはいません。ただ、他の見方もあるのかも。
じょーさんのように、考えて考えて言葉を発し、考えて考えて言葉を受け取る人は、そんなにたくさんはいないのかもしれません。多くの場合、何も考えずに発して受け取っている、のかもしれません。
井口時夫という評論家がこう述べています。
「人間と人間をつなぎとめる濃密な関係の網がずたずたに寸断され、まるで抽象的で孤立した単位のようなものとして個人が放り出されてしまったと言われる現代において、おそらく、私たちが真に驚くべきは、人間同士の心の伝達の困難さについてではない。私たちの日々の経験によれば、事態は全く逆なのである。どんなに過大な自己幻想を抱いた孤独な生存も、いやおうなく他者との関係に入り込んでしまうのであり、そこでは意図すると否とにかかわらず、負い目を負ったり負わせられたりしているのである。だから、言葉が通じない、と言うべきではない。それでも言葉は通じてしまう、とこそ言うべきなのだ。」
(『物語論/破局論』(「伝達という出来事――村上春樹論」)論創社)
大事なことだし、必要なことだから、それを伝えるために言葉を使うと、内容は間違っていない(はずな)のに、何か変な反応を返される場合があります。それによって話がこじれたり行き詰まったり立場が追い込まれたりすることもある。
言葉はとても大事なコミュニケーションツールですが、唯一のツールではありませんし、言葉が常に真実を表現している場合ばかりでもありません。内容を伴わない言葉にかえって「しばられる」ことになると、真実や事実がわかりにくくなったりもします。
逆に、内容よりも「言い方」が大事だったりする場合もあります。まったく「正しくない内容」なのに、言い方が良かったから受け容れられてしまっていることが結構、いやあまりにこの世界には多いことに気付いて愕然としたりします。そして、言葉を完全に間違って喋ったのに内容が正確に伝わっていたりもします。
言葉は、伝えたいように伝わることは、まれで、伝わっていくように伝わってしまう、というもののようです。
本当に、おつかれのように読めます。ですから、環境が許すなら、まずは少し休んでみるのも良いのでは。
それから、自分や相手の、言葉よりも表面に出て来ている「何か」を感じられるようになれたら良いなと、……わたしも日々、思っています。思ってはいますが、むずかしいですよね…。