身心脱落する方法
この様な質問している時点で身心脱落にいたるのは難しいとは思っているのですが、自分は「自分を傷つけられたくない」という自我が強くそこに執着してしまいます。人を自分から信じられないのです。他にもありとあらゆる執着があり苦しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
それがそのまま。
『この様な質問している時点で身心脱落にいたるのは難しいとは思っている』
それはたいへんすばらしいことではありませんか。
すばらしいと思います。
ご自分についてよく分かっていらっしゃるということですから。
少なくとも私なんかよりはずっと。
それこそが手つかずのままのいちろーさんだと思います。
身心脱落は「ゴール」ではなく
「手つかずのまま」を指すのだと思えば。
身心脱落に「至るまでもない」と
いつか、そうはっきり言えるときが来るのではないでしょうか。
たとえ、いちろーさん本人が誰も信じられなくても。
いちろーさんのその誠実さを信じたいと思う人は出てくると思いませんか。
ご自分のそのままをよく知ることがいかに難しいか。
その誠実さ。そのままのそれが大切なことではないでしょうか。
私もいつかそう言えるように。
いちろーさんのように。
いつかそんな日が来るといいなと思っています。
南無釈迦牟尼仏 合掌
「身心脱落する方法…?」
「自我の強さ(執着)」をコントロールすることは、何かのキッカケでそれまでの捉え方が変わったりすることで、比較的簡単にできてしまうことがあります。
別に軽んじているわけではないので、悪しからずご理解下さい。
さて、標題の『身心脱落する方法』についてですが…
『方法』という表現が妥当かどうかはともかく、『身心脱落』が道元禅師の大悟に関するキーワードであることをご存知であると判断し、『身心脱落 = 大悟』と置き換えたうえで回答致します。
先ず、「大悟することは可能か?」
理論上は可能です。但し、簡単ではありません。
次に、「大悟とはどのようなことか?」
曹洞宗の宗旨では、『仏祖単伝の正法に遵い、只管打坐、即心是仏を承当すること』(『曹洞宗宗憲』より)とあります。
つまり…(以下は私見です)
身(環境・条件)と口(思想・価値観)と意(希望・欲求)が一如なる仏を実践するという理論(教え)に裏付けされた坐禅『只管打坐』。
言い換えるならば、(三業一如なる)仏の行蔵に裏打ちされた理論(教え)『即心是仏』。
仏様の教えに基づき、この『理論』と『実践』が両輪の如く転ずることを『大悟』・『身心脱落』であると私は考えます。
では、その方法(?)とは?
先ず、「解決したい」「解明したい」という強い思いを持ち続けること。(発菩提心)
そして、正しい導き手に教えを乞い、学び励むこと。(修行)
…が必須条件だと思います。
更に詳しく知りたいと思われるのであれば、参学の入門書『学道用心集』(道元禅師著)をお薦めします。
解説の付された書籍もありますし、たしかそのようなサイトもあったと記憶しておりますので、ご興味ありましたらお調べ下さい。
質問者からのお礼
ありがとうこざいます。
自分の幼稚さを常に感じる最近ですが
2020新たな指針を立て精進して参りたいと思います。