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苦痛な同窓会

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くだらない悩みかも知れませんが、どうかお願い致します。

同窓会に出席してきました。連絡先が分からない人もいたので、私を含め5人と小規模参加です。
Aちゃんとは長年仲良くしています。Aちゃんが久しぶりに集まろうって声を上げ、LINEのグループが作られました。

参加者の中に、Bちゃんと言う私があんまり会いたくない人がいました。昔は仲が良かったのですが、私に子供が産まれて大変な時期にわがままを頼まれる事があり、とても迷惑だったのでその後会わなくしてしまいました。
そんな経緯はあるけれど、もう随分前の事だし、何事もなかったかのように明るく接しようと思って行ってきました。

不運にも?会場に着く前に駅でBちゃんとCちゃん(Bちゃんと仲良し)と会い、久し振りだねと笑顔で挨拶してみたけど…
すごくしらけた表情で、その後会場に着くまで完全無視(泣)。Cちゃんもきっと何かしらBちゃんから聞いているのでしょう。私も幼かったけど、あっちも大概迷惑かけてきたんだけど…と、腹立たしく感じましたし、何より来るんじゃなかったと後悔…。Bちゃんは子供がいないし、当時の私の赤ちゃんを育てるに大変だった環境はあまり伝わらないと思っています。なので当時の事は私の心が狭いくらいにしか思われてないのかも。

同窓会はAちゃんもいるし、Dちゃんとも仲良く盛り上がれたし、何とか無事に終わりました。BちゃんとCちゃんにも声かけたり明るく頑張ってきました。みんなの揃う場では、一応無視ではなく短い受け答えくらいはしてくれました。

LINEのグループを作ってしまっているし、また会う可能性は高いです。帰り際にまたやろうねって流れになっていましたし。でも5人中2人も私を好いていない人がいるところにまた出席するのがつらいです。

Aちゃんには全て打ち明ける事も出来ますが、主催してくれたAちゃんはきっと気に病むでしょう…。板挟みになってしまうだろうし、打ち明けたくても悩みます。

理由をつけて今後断る事は出来ますが、参加しないのにLINEグループに属してるのも苦痛です。でも勝手に抜けるのも失礼だし…。

今後も頑張って参加するべきなのでしょうか…。でもまた無視されるのかなと思うと、時間とお金を使って何故そんな嫌な場に行かなくてはいけないんだろうって思いがあります。
どうするのが良いのでしょうか。宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そんな感じで減っていくのが同窓会

人生において真に仲良しの人は一人二人いりゃぁ十分でしょう。
学校、クラスが同じだったというだけで性格、キャラ、人生観、価値観、みんなバラバラですわい。
よって、同窓会云々というより、人生において本当に優れたお友達を持てばいいのではないでしょうか。別に学校にこだわらなくてもいいでしょう。ましてや感じ悪い人間なんざ。(笑)
人生において大切なことは、あなたがあなた史上、最高になることです。
あなたがあなた史上最高になれば、嫌な相手がいても相手にしなくなります。自然にいいオーラが出るので人が寄ってきます。交友関係も選べます。
嫌な相手には嫌と言えますし、コミュニケーションも上手になります。
私も坊さんの世界ではおおよそ浮いていますが。(笑)
ちゃんと正法を守る人たちとはみんなお友達です。
坊さんの世界であっても坊さんになれていない人は結局坊さんの恰好をしたシャバの人と何ら変わらんですから世間の交友関係と同じなのです。
ところが、僧侶の世界は仏法僧の「僧(僧団・サンガ・僧伽)」のことを❝優れた友❞とお呼びしますから、一緒にいて居心地がいいのです。
そういう優れた友を人生の中で見つけることです。
条件付けも、タカリも、利用されることもなく、安心なお友達。
仏教を学んでいるうちに自然に見つかるもんですよ。
人生のすべてが学びです。
その人間関係も学びといたしましょう。別にそれでTHE ENDではありません。
次回あった時にどうか。
次回あった時にあなたがどうか。
次回あっても相変わらず嫌な人たちであればそれも学び。
次回あった時に、私自身にも相手に対する思い込みや身構えがあるのであればそれも学び。
人間はこの世に生まれてきた以上、この自分自身という乗り物を最高に乗りこなすことが大切です。仏教とは自分史上最高の快適ライフを見出すものです。
自分史上最高の自分になれば同窓会に行っても行かなくてもいいですし、行った先に嫌な人がいても平気になるので、嫌な人そのものがいなくなるのです。
相手を変えず、自分の心を変える。
自分が最高になったら、その功徳を巡らして相手の困ったところを助けてあげる。
そういう生き方があることを知り、実践することがこの世における人間という集団の中における最高の生き方なのではないでしょうか。
そういう最高の生き方を説くものを仏教というだけです。お大事に✋

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様

回答ありがとうございました!
もやもやと悩んだり悲しかったりしていましたが、気持ちがすっきりしました。

同窓会、他の集まりにも参加したことがありますが、私にとっては失礼ですがどれも生産性のない時間です…。その場限りの何となくの楽しみだけで、あまり意味を見出だせないような…。

高校からのとても仲の良い友人がいます。何でも話せるし話してもらえるし、どれだけ一緒にいても楽しいです。その人ほどではないですが、Aちゃんや他3人、長年一緒に過ごしてくれている友人も。
同窓会などどうでもいいじゃないか、こういう繋がりを大事にしていればって思いました。

次回の同窓会は断ると思いますが、Aちゃんの立場を考えると断りづらかったりしたら、もしかしたらまた行ってしまうかも知れません。
でも私がしっかりしていれば、嫌な相手も気にならないですね。もし嫌な事があったとしてもそれもまた学び。そう思えたら強くいれそうです!

大事な友人との繋がりが保てているのなら、嫌な相手に嫌われようが、そんなの大したことじゃないなと思えてきました。
私の友人は苦手な相手や嫌いな相手でも挨拶や受け答えはちゃんとしています。そして私も。いい年なのに表面上の挨拶すら出来ないなんて、寧ろそういう人とは友達でなくて良かったと思いました。

今ある良い繋がりを大事にしようと再確認しましたし、嫌な態度をする人に対しての拘りも消えました。
また何か嫌な事があっても、強くいられるよう毎日を頑張ろうと思います。弱いところが多い自分ですが、自分の心を変えていけるよう頑張ります。

ありがとうございました(*ˊᵕˋ*)

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