なんで無住にしておくの?
少子高齢化や東京一極集中で地方のお寺がどんどん成り立たなくなっています。
それはわかります。ですが、無住になったらなぜそのままにしておくのでしょうか?当家のお寺も、住職が住んでるメインのお寺のほかに2箇所兼務で持っています。本体でも食えないから副業してるのに、兼務寺院が財政に寄与してるわけありません。
素人考えでは、遠隔地に建物を維持するのも大変だし、給料どころか光熱費すら賄えない名前だけのお寺はメインの中核寺院に全部まとめて潰しちゃえば効率的だと思うのですが(名前だけをお堂やスペース等で残せばよくありませんか?仏像も一箇所に集まれば豪華でしょう)そうはなっていません。今後経営が好転する可能性が全く無い場所で、無住のお寺を日本中で維持しているのは不合理だと思うのですが、これってなんでなんでしょうか?(有名な札所だから、というケースは無しで)
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「合理か不合理か」だけでは…
至極まっとうなご意見ではないでしょうか。
たぶんゆくゆくはそうならざるを得ないと思います。
しかし
実際には法的な問題や、恐らく合併の際なんかは余った土地の処遇や法人のイニシアティブを誰が握るか等々、
少なくない混乱や衝突、痛みを伴うので、そう簡単には合理化できないと思います。
それを先陣切ってできる人がいたとしても、後に続く人がいるでしょうか。
まとめて潰せばとおっしゃいましたが、それすらも金銭的、労力的にできないのが実情なのかもしれません。
信心篤ければ何とかと申しますし、徳の至らない私たち僧侶の問題と言われればそうですけれども…。
無住を維持するのにもそれなりに理由があるのだと思います。
私の生まれたお寺は1577年(天正5年)の開創です。現在に至るまで27代の住職を歴代の祖師方が務まれた記録が残っています。
ざっと440年経っていますが、
血筋も師弟関係もバラバラ。
最初の住職さんがお寺にきたときなんか、既に開創から何十年も経ってます。
その間、何十年も無住の時代を、住職資格を持たない和尚さんや小僧さんが維持に励んだとあります。
最初だけではなく、440年ものあいだ、それは頻繁にあったのです。
小さな寺だったのでしょう。
『住職の交代多く、又無住の時多く、その間、和尚、尼僧、上座、座元など寺務を執行せり。』
上座、座元とはまだ一人前になる前の僧侶のことです。
戦国、江戸、幕末明治維新、日清日露、太平洋戦争、高度経済成長、バブル崩壊、オウム事件、リーマンショック、そして東日本大震災、
目まぐるしく変わっている情勢、主義のなかで
それでもなおバトンを繋ごうとした、繋ぎたいと思った歴史があるんです。
たとえ小さなお寺であっても。
それをたかだか何十年しか生きていない私たちの考え方ひとつで潰していいものでしょうか?
合理化がいけないとは思いません。
でも私たちは「合理か不合理か」だけで生きていられるわけではありませんから。
無住のお寺を維持しているのは、
「維持したい人がいるから」
その情熱だけだと思います。
至ってシンプルではないでしょうか。
嫌ならやらなくていいんです。
個人的には
維持したい人がまだいるぶん
そこで少人数でも支え合っている人がいるぶん
全国空き家だらけの単身世帯だらけみたいな状況よりは
はるかにましだと思います。
信仰について
拝読させて頂きました。
信仰にはそれぞれの地域に生きた方々のあり方や生き方や信心深さや歴史の積み重ねがあります。
例えば片田舎の道路も整備されていない場所でも大切にまつられた仏像やお地蔵様や神様のやしろにもそこに今まで生きていらした方々のあつい信仰がありますし、そこで手を合わせてることで救われたあまたの人々がいらっしゃると思います。
幼くして亡くなった我が子を弔い救いとってもらおうと思う切実な願いが込められているところも沢山あるでしょう。
また私達日本人の信仰には八百万の神々がいらっしゃるのですからあまたの神々をおまつりしているところがいたるところにあります。
或は海外でも中東の死海周辺の荒野には今でも沢山の信仰の痕跡が残されているでしょう。
それらは今私達の価値観だけでは捉えきれない大切な存在だと思います。
いかがでしょうか?巨大な神殿や寺院と小さなほこらや石像ではどちらが尊いものでしょうか?
圧倒的な財力のある大寺院と小さな田舎の貧乏寺とはどちらが尊いでしょうか?
合理化ということで後先考えずにまとめてしまうことによって本当に尊いものや私達の歴史や文化や生活そしてアイデンティティを捨ててしまわないでしょうか?
まとめてしまいますと歴史的な意味や経緯もわからなくなってしまいます。そして大切なことを失ってしまうこともあるかと思います。つまり私達自身もわからなくなってしまうこともあるでしょう。
私達にとって本当に大切なものをせっかくですから見直してみることもありだと思います。
あなたがおっしゃるように無住でただ放置しておけばいいというわけではありません。それぞれ大切にしてこれからの未来にどうつないでいくことが良いのかを私達自身これからも考えていくことは必要かと思います。
ご意見を参考にさせて頂きます。ありがとうございました。至心合掌
無人駅でも駅は必要
無人駅であっても、住民にとっては近くに駅があった方が便利。
隣の駅の駅長が兼務でも。
寺院は、それぞれが独立した宗教法人であり、住職(代表役員)の選任は、檀家総会や役員の同意など、手続きが必要です。
なので、檀家の皆さんが「潰す」と判断しないかぎり、残ります。
お寺の主体は檀家さん達であり、お坊さんはむしろゲストなのです。
質問者からのお礼
お二方のお返事ありがとうございました。やはり、合理性だけでは測れない心情的な部分、地域の方々の感情等々にまだまだ引っ張られているということなのですね。登記や財産の法的な問題が障害になることもよく理解できます。ただ、感情だけで対策をしないでいていいのかなぁという疑問は変わりませんが、妙案はまだまだ無い状態なのですね。