お花やお供えをする意味は?
お世話になります。
お墓や仏壇などにお花やお菓子などそえたりしてましたが、、
お花が枯れたままだったり、何もそえなかったりとしてるとこもあります。
故人が好きなものをそえるのは、食べてくれたりしてくれてるものでしょうか?
お花をたくさんそえた事で、魂の周りは明るく温かく包まれるという事でしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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視点の転換~「私→亡き人」から「仏様(亡き人)→私」へ
ご相談拝読しました。
お仏壇のお世話を「お給仕(きゅうじ)」や「お荘厳(しょうごん)」といいます。
「お給仕」とは「仏様に仕えること」、「お荘厳」とは「仏様の世界を表すようにお飾りすること」です。
つまり、私がお世話しているのですが、それがそのまま仏様から私への教えのメッセージとなっているのです。
だからお花でもなんでもこちらを向けてお飾りするでしょう?こちらが仏様に差し上げるものでなく、仏様からいただくものなのですね。
お花は仏様の慈悲を表すといわれます。単純にみてパッと美しい。もうその一瞬が仏様の世界です。
そしてよく見ると赤い花は赤く輝き、黄色い花は黄色く輝く。みんなその色そのままに輝き、競うことなく調和している。やはり仏様の世界です。
でも、花を活けるのに根切りしますから自然そのままに咲く花よりは持ちません。それがまた諸行無常の命を表しますし、また、いつまでも枯れない造花であれば飽きてお飾りを怠ってしまう人間のあり方にも沿ってくださっています。
お花一つとっても色々な仏様からのメッセージがあるのですね。
「でも正直私は仏様なんかよりも大事な亡き人にお供えを…」
というのが本音かもしれません。それも大事な亡き人からのメッセージです。とても仏様の教えになど目の向かない私たちに、どうか仏様の教えに出遇ってほしいと願いをかけてはたらいてくださるのです。
その姿がそのまま私たちにとっての仏様なのです。亡き人が死んで自動的に仏様になるのではありません。
残された人がその命の終わりを通して伝えてくれる大事な教えを受け止めた時に、「ああ、亡き人は私にとっての仏様なのだ」と受け止められるのです。
その受け止めのところにはもう亡き人がどこかで迷ったり苦しんだりしているのではないか?という思いは薄らいでいくでしょう。
むしろ迷い苦しむこの私をこそ、本当に大事な仏様の教えに出遇わせようとはたらいてくださる仏様。それが亡き人との出会い直しなのです。
その仏様に敬意を示してお供えするのがお菓子などのお供え物です。亡き人や仏様が食べるわけではありません。
敬意からお供えし、そしてお下がりを私たちがいただくのです。
お仏壇は仏様の世界。亡き人は仏様と私の橋渡し役までしてくださる仏様の一人です。
亡き人を思う気持ちがそのまま亡き人からの促しなのです。