先月に母が亡くなりました。 母は10年以上もの間、寝たきりだったので足も細く歩けません。 浄土への道のりは800里あると知って、ちゃんと浄土までの道のりを歩いていけるのか心配になりました。 御供えにミニカーやミニチュア自転車などをお供えしても良いのでしょうか?
お坊さん方こんにちは。私の仏教に関する疑問にお答えください。 よく人が亡くなってから初7日や49日や1周忌、三回忌などありますが、その時亡くなった方の霊はどんな風になってるのですか??閻魔大王にずっと裁かれてるのですか? また、もう一つ気になってる事があります。 前に家族、親戚などが供養すると故人の霊が極楽に行けると聞いた事があるのですが、もし私がこの先結婚せず孤独死すると墓参りする人も供養してくれる人もいない事になります。なので私は極楽に行けないのでしょうか?? 質問が多くなりすいません。どなたか回答してくれると嬉しいです。
現在の菩提寺から祖母の改葬をしている最中です。 菩提寺の住職が改葬に応じなかったため、やむを得なく弁護士に依頼し、手続きを進めています。 2ヶ月かかり、ようやく遺骨引き取りの約束まで出来ました。 あとは弁護士に引き取りに行ってもらうだけです。 弁護士に依頼する前も、脅すようなことを言われたり、仏壇の前で亡くなった人の悪口を言ったり、お金の話ばかりしたりと散々で、今後、こんな人に法要をしてもらいたくなく、私の父の菩提寺に改葬しようと家族で決めました。 このような経緯があり、元のお寺の住職にはもう二度と関わりたくありません。 弁護士にも嘘をついてこちらが悪いから誤りに来いとも言っていたようです。 遺骨引き取りの日が決まるや否や、今度は「閉眼供養はどうするんだ、しないのは冒涜にあたる」と弁護士を通じて脅してきました。こちらは弁護士に一任しているので会うつもりはありません。 しかし、閉眼供養をせず、改葬をしてもよいのかと迷っています。 父のお寺のお坊さんは、必ずしなければということはないと言っています。 改葬後のお寺では、きちんと供養をしていただく予定です。 このような事情がある場合、閉眼供養はしなくてもよいでしょうか? アドバイスなどありましたら、よろしくお願いいたします。
家の宗派とは違う浄土宗を個人で信仰していますので、浄土宗の菩提寺がありません。ですが阿弥陀如来像の開眼供養をしていただきたいと思っています。 菩提寺でもない浄土宗寺院にいきなり開眼供養してくれとは言いにくいのですが、一方で同じ県と隣の県に善光寺の別院があり(同じ県は天台宗、隣の県は真言宗)、ここなら引き受けてもらえそうです。 天台宗または真言宗の寺院で開眼供養を受けた仏像を浄土宗の作法と信仰で祀るということをしてもいいでしょうか? なお実家の菩提寺は浄土真宗なので開眼供養というもの自体をやっていません。
お世話になります。当家に昔からの馬頭観音さん(牛馬、最近は犬猫のお墓)があります。今回、移動する事になりましたが、ご供養はお寺様にお願いしなければいけないでしょうか。家の者がお供えをして拝礼したのみではいけませんでしょうか。ちなみに、お供え物は、酒、米、豆を考えております。よろしくお願いいたします。
何年か前に仏教の本(題名は忘れてしまいました)で読んだのですが、観音様に少しでも供養したら多くの仏様に供養したのと同じぐらいの功徳があり何回生まれ変わっても尽きることの無いと書いてあったのですが、本当なのでしょうか?
こんにちは、お世話になっております。 数ヶ月前に身内が亡くなり、最近やっと少しずつ環境や心の状態が落ち着いてきました。 その方のお仏壇はその方の家(現在は配偶者の方が住んでます)にありますが、それとは別に自分の部屋に写真とお花を飾っています。 お線香は頻繁にあげているのでお仏壇の代わりではなくその方との思い出を飾っているような感じです。 質問は、お花についてです。 前まで生花を飾っていたのですが、仕事の関係でお世話が出来ない日があったり、週末は家を空けてしまうので枯らしてしまうことが多く…枯れていくのを見届けるのも悲しくて、個人的に好きなドライフラワーをお花屋さんに作っていただき飾ろうかな と考えているのですが、お仏壇ではなくても故人に向けてドライフラワーをお供えするのはあまり良くないことでしょうか? 時間が経っても劣化はあれど変色したり枯れることはないので、生花のお世話が出来ない時にドライフラワーを置いてみようかなと思っています。 元は生花ですが加工されていますし、ドライというのも少し縁起が悪いかな?と不安もあります。 やめるべきかどうか、お坊さんのご意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いいたします。
先日、母が急死しました。私は近くで暮らす娘です。近々仕事を辞め、その後は年老いた両親に寄り添っていこうと思っていた矢先のことでした。 母の葬儀の後、私はコロナに感染。退職の日が迫り後任への引継ぎもあり、母が亡くなってからの1か月は自宅療養と引継ぎにすべての時間を割き、ろくな供養もできぬまま過ごしました。やっと退職となった翌日、今度は父の体調が急変。手術をして今も入院中です。 私が療養と仕事に専念し父では準備が進まなかったこと、コロナ禍で墓石の準備が整わない事情、急な別れだったからこそ父不在ではかわいそうとの思いなどから四十九日の法要は延期。墓の完成と父の退院を待って法要や納骨を行おうと考えています。いたしかたなかったとはいえ実の娘から充分な供養を受けなかった母、四十九日の法要を勝手に延期された母は成仏できないでしょうか。今になって毎朝水やお茶や炊き立てのご飯を備えたところで四十九日までにできていなかった罪滅ぼしにはならないでしょうか。「申し訳なかったね、今からでも供養させて」と手を合わせるのは身勝手でしょうか。 また妊娠中の娘から「安産祈願へ一緒に行こう。そのあとあちらのご両親とお食事でも」とお誘いを受けています。四十九日…日数は過ぎていますが、実際に法要や納骨はまだなので、事情を話し、ご遠慮した方がいいのでしょうか。
父の11年目の命日が2/27にきて、病院を出ることの出来ない私はYouTubeでお経動画を探し、それを聴きながら十念を唱えつつ過ごしました。 父のことを思い出しては泣いて、流石に疲れました。 いてもたってもいられず父のお墓のあるお寺さんにお電話させてもらい奥さんとお話した時に思い出すのも供養ですよといってもらえましたが、そうなのでしょうか。 父の仏壇には分骨した遺骨と共に父の作った仏像と一緒に位牌を入れてあります。分骨の理由は、父が帰りたいと言った故郷のお墓は遠いので近くにいてほしかったのと、せめて最後に家に帰らせてあげたかったからです。 家の宗派自体は浄土宗なのだそうですが仏具や仏壇にどのように配置するかは不勉強で合っているのか分かりません。 (父の作った仏像を中心に一段左下に骨壷右下に位牌があります)父が亡くなって11年、遺骨が手元にあるわけですが、ちゃんと父は成仏できたでしょうか。そして供養はこれで良かったのでしょうか
血は繋がっていないのですが、産まれた時からお世話になっていた方が亡くなり、7日ごとにお祈りしたいのですが、血縁者ではないため初七日等に参加出来ないです。 でも本当に大好きなので、お祈りしてあげたいのですが、7日ごとにお参りに行くのもスケジュールの関係で難しく、その場で故人のことを想いながら手を合わせるだけでも想いは伝わるのか不安で、今回相談させていただきました。 また、これから四十九日や命日が訪れることになるのですが、血縁者ではない身として、 どうやって故人に想いを伝えるのが1番良いと思いますか? 血縁者ではないとは言え、家族ぐるみで仲良くさせていただいていたので、言えば参加させてくれるような気はするのですが、迷惑だろうなと気になってしまいます。 それに学生になってからは、 あまり会えていませんでした。 去年、私の祖母に「そろそろだと思うから会いに行ってあげて。あなたに会いたいって言ってたから」と言われ、久しぶりにお家に行きました。それから何回かお邪魔してたのですが、今月亡くなりまして、ショックがおさまらないです。 久しぶりに会ったので、正直ご遺族の方との距離感にも悩んでおります。 お忙しい中申し訳ありませんが、ご回答お願いしたいです。よろしくお願い致します。
はじめまして。 よろしくお願い致します。 私は決まった宗派に属している訳ではないのですが、以前からお寺と仏像が好きで、あるお寺に月に1度程度なのですが参拝しています。 そのお寺のご本尊はお不動様なのですが、何度も通い拝んでいる内に、何とも言えない心の満足感や安らぎを感じるようになりました。 そこで、自宅でもお不動様を拝みたく、木彫りの不動明王像を購入しました。(ひと目見てとても気に入り、彫刻家の方に直接連絡をとってオーダーメイドで造って頂きました。まだ手元にはありません。) 生活状況から毎日しっかりお勤めができる自信が無い為、開眼供養はしないつもりだったのですが、調べている内にしないで拝むと魔が入るという事を目や耳にし、大変不安になっております。。。 お勤めがしっかりできなくとも開眼供養はするべきでしょうか? そもそもそんな心構えでは仏像を手元に置くこと自体間違っていますか? 魔が入るといるのはどういった事なのでしょうか? 勉強不足で申し訳ないのですが、ご助言頂けると嬉しいです。
2週間前に母を亡くしました。 いざ葬儀の際、父は菩提寺もなく檀家でもない、お墓も持っていないこと(父は次男で実家から距離もあるので)、私が生前の母とテレビを見ながら「戒名は何十万もして高いし、私はこのままでいい。お墓も高いから…」と話してたこともあり、俗名のまま、宗派も決められないので葬儀屋さんからそれでも読経して頂けるお坊さんを呼んで頂き葬儀を行いました。 2月末には四十九日ということになりますが、その前に悩んでいるのが、 このまま俗名で供養できるのか?ということです。 母の言葉通りであるなら、戒名は不要なのかもしれません。 私自身も、母と同じ考えで自分に戒名は不要だと考えているので、母の気持ちは理解できます。 ですが実際に母が亡くなって、しっかりと供養してあげたいと考えるようになったことで、白木位牌から本位牌に代わる際、俗名のままでいいのだろうかと不安になりました。 家族は、母がいらないと言ったならつけない方がいいのではないかとも言います。 心配なのは、 俗名のまま、本位牌を作成して開眼供養して下さるお坊さんはいらっしゃるのかどうか 葬儀は読経して頂けたけれど、宗派もわからぬまま四十九日はどうしたらいいのか。 お恥ずかしい話です。 全く仏教に関する関心や信仰心等無かったのに都合がいいかもしれません。 自分にとっていい部分だけ切り取ってすがろうというのもばち当たりであるとも思います。申し訳ありません。
先日は御回答頂きありがとうございました。 ところで、色々な宗教では自分で命を絶つことを禁じていますが、最近どうにもならなくなってあの世へ旅立ってしまう人のニュースを見聞きするようになりました。いつの世もこんな事はあるのでしょうが、そうは言っても哀しい話だと思うのです。誰でも一歩間違えたらそうなるのだと思います。 もし生まれ変わりがあるのなら幸せになってほしい、もしあの世に行けたのならゆっくりお休みになってほしい、迷っていたら安らかな場所へ一刻も早く辿りつけますように、と全く関係のなかった私が祈るのは無意味なのでしょうか。 私が暮せているのは、本当に運が良かっただけの話ですかないので、どうしても他人事とは思えないのです。
喪中中ですが、旅行行っても大丈夫ですか?
故人を受け入れていくことや思い出を大切にしていくことは本当に大事なんだなと、お盆を迎えながら気付くこの頃です。 家族の初盆を迎え、残った家族それぞれの考えの違いが顕著になり、少し戸惑っています。子ども時代を過ごした中で、亡くなった家族は父母としての役割を確かに果たしてくれたはずなんですが、父母は当時私たちを祖父母に預けることが多かったようで、私と兄弟は祖父母を父母のように慕いながら育ってきました。 私自身も父母との確執は以前あったのですが、いい歳の大人になったのもあって受け入れられるように少しずつですが、なりました。 ただ兄弟だけが、確執というか、心残りのようなものが残った状態で生き別れてしまったようで。亡くなった家族に対してあまり心を開けないままになっているようです。確かに葬式などを過ごした中で悲しみや悔しさなどはあったのですが、あまり深い思いがないような心地がする様になったと。 母は、父が亡くなってからは受け入れるのに必死で。私と何かで衝突する時があったのですが、その際に今までのことがプツッと切れてしまったのか、子どもにように泣き出してしまって。 必死に父のことを受け入れたかったようで、今まで誰にも言えなかったようです。私はそのことに全く気づかず、母が今社会と切り離されたような生活をしていて孤立(専業主婦のため)していることに焦りと不安があり…。趣味など見つけようとしない母を問い詰めたり、何か始めたらいいのにとなじったりする始末です。 残った家族の関係性や、亡き故人への思いの違いがよりはっきりしてきて、そのことを受け入れるのに不安と怖さがあります。 兄弟がまるで非協力的に思えてしまったり(母に対してもあまり思い入れがなく)、私と1人の親戚のみが唯一母に対しても心開いて接することができるような状況です。この先どうなってしまうのだろうと、急に不安で。私自身、仕事にようやく慣れて自分の生活を再開できるようになったところです。 不安なことが多く、誰にも打ち明けられないのも現状です。何かアドバイスがあったらとすがる思いです。長々とした文章を読んでいただいて、ありがとうございます。
仏教について調べていると、葬式とその後の供養が最重要トピックの用に扱われているのが不思議です。 親や先祖の供養ってそこまで大事なのですか? 血縁ってそこまで重要なのかしら? 先祖供養は儒教ではないのかしら? いえ、私も木の股から生まれたわけではないので、縁なり因果なり何かしらあるのだろうとは理解はしていますが。 この世に産み落としてくれたことは有り難いのですが。 血のつながりばかり大事にしなくてもそこかしこに縁はあると思うのです。 個人的に家族の縁が薄いこともあり、 親や先祖のことはよく知らず供養もしていません。 私の死後供養してくれるものもおりません。 しかしそんな私が死んだ時も 仏さまなら何とかお慈悲をくださるのではなかろうか というのが信仰を持ちたいと思った動機なのです。 「私と仏さま」の話ならわかる気もするのですが「私と先祖と仏さま」の話がよくわかりません。 先祖供養が必須なら、親のない人間は仏さまに救っていただけないのでしょうか。 そもそも私の理解が間違ってるのかもしれませんが、 苦しみの多い輪廻の輪から解脱するため修行をしよう、また大乗仏教においてはいろいろな仏さまの力を借りたりおすがりして解脱にいたろう、 というように仏教的な死生観を解釈しています。 修行が足りず仏さまとの縁も結べなければ輪廻の次の段階に進むでしょうし、 宗派によっては生前から成仏しているわけですし 浄土系の宗派では阿弥陀さまのお慈悲によって極楽往生できるでしょうし…。 死後、死者の行く末に関して、生者はどれだけの干渉ができるのだろうか、というのが疑問です。 それは死者本人と仏さまの間の話ではないのかと思います。 そうすると供養とは何のためにするのでしょうか。 お教えをいただければ幸いです。
昨年末、父をがんで亡くしました。 半年たった今でも会いたくて辛くて毎日毎日泣いています。 毎日、私と同じ食事を供え、お菓子や果物を供え、ろうそくや線香を着けて話しかけています。 お寺さんのお経、私のしている事、ろうそくの火、線香の匂い、など、生きているものがしていることは父に届いているのでしょうか? 時々、生きている者の気休め、遺族の自己満足ではないか、父には何にも届いていなくて、父は無になって、遠いどこかへ行ってしまったのではないか、と思います。 そして私が死んでも父には会えない気がします。 会えると周りは慰めてくれますが、私は死後の世界は無いと思っています。 供養として行っている宗教的な事は遺族への慰めのような気がするのですが、故人に届いているのでしょうか? 故人は考えたり、遺族を見ていて守ったりしてくれているのでしょうか?
亡くなった人は残された家族を見守っているとか、亡くなった人の為にも残された家族が幸せに生きる事が供養になるとか、そういう言葉をよくききますがそれはどうしてなのですか? 私自身自死した夫に対して、愛しく想い語りかける日もあれば、ひどく冷たい感情が出てきてしまい成仏されますように…と言葉だけを向けてしまう日もあります。もし夫の魂に私の心が伝わっているのであれば、そういった冷たい感情みたいなのも伝わっているという事ですか?それが伝わってしまっていたら夫はかなしむのですか?
いつもお世話になっております。 5月に亡くなってから初めての母の誕生日が来ます。コロナ禍で、死に目にも葬式にも参加出来ず、亡くなったことを分かっているのですが、どこかでまだ受け入れることが出来ません。 自分自身も5月が誕生日であり20代最後であることと、母の誕生日ということで自分自身への記念と、母の誕生日を忘れないという意味で指輪を買い、常に母を感じられたらと思いました。この行動は良いことでしょうか?段々、ただ単に自分が欲しいものをこじつけで買おうとしているのではないかと思うようになりました。
義父が亡くなって7年、義母も10年前に亡くなっています。昨年子供である私の配偶者も亡くなりました。義父母の菩提寺(真言宗)、墓は遠方にあり、婚家の長男が墓や菩提寺とのお付き合いを受け継いでいます。だた、関心が薄く、面倒がり、一周忌の法要も特に集まったりはしませんでした。義父の葬儀の際から、配偶者が連絡役を行っていたり、直近では菩提寺への支払いを代わって行ったり(恐らく、七回忌に関連するもの)といった状況です。 今回配偶者の遺品整理等を行う中で上記のような状況を知り、お世話になった義父母に対して申し訳なく、感謝の気持ちを伝えたいこともあり、機会をとらえて、菩提寺にご供養をお願いしたいと思います。 義父が心を寄せていた土地であることから、依頼はその菩提寺にしたいと思います。 質問ですが、決まった年忌法要ではなく、私が個人的に法要等をお願いすることは可能でしょうか?また、どのようなご供養をお願いすることができるのでしょうか。 菩提寺さんにももちろんお尋ねしますが、電話、手紙でのやりとりとなり、あまり詳しくは聞けないこと、宗派による違い等があったらと思い、こちらで質問させていただきました。
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