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被害者やその家族を叩く風潮にうんざり

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インターネットで様々な事件・事故の記事を読んでいると、加害者ではなく被害者やその家族を批判するコメントの多さに驚きます。

性犯罪に遭った人を追い詰める「セカンドレイプ」、行方不明になった子供の親に疑惑を向ける発言、殺傷事件や詐欺であっても自業自得だとか被害者が不注意だったからだとか…見るに耐えません。

こうした「被害者叩き」が起こるのは日本特有の現象なのか世界共通なのか分かりませんが、本当に腹が立ちます。
一番つらい思いをしている方々の傷に塩を塗り込むことで、優越感のようなものを感じているのでしょうか。

何の役にも立たないのに、批評家気取りの素人が大量発生するのは何故なのでしょう。
誰でも自分自身や身内が犠牲になる可能性はあるのに…

愚かなコメントを見たくなくて、最近ではネット記事やSNSを閲覧しなくなりました。
こうした過剰な被害者叩き、嘆かわしく思われませんか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ほんとですね

みんなが批評家・評論家なこの時代

人間がもともと持つ煩悩によるのでしょうが、SNSなどの影響でさらに見えやすくなっているのは確かかもしれません

誰かを叩く人がいて、それを叩く人を叩く人がいて、さらにそれを叩く人がいて、叩くのはおかしいと叩く人がいて、何も言わないのもおかしいと叩く人もいて…

まあ、人間が考える事は結局限界があるということです。

何かの立場に立つと、それと同時に反対の立場が出来上がってしまう。所詮は誰かを間違いにするような正しさしさか持てないということなのでしょう。

仏教ではそれを偏(へん)とみます。偏りですね。だから仏教は中道をいく。偏りのない道を。

もちろん「私は偏ってない」とするのも偏りです。偏りのないのは仏と仏の教えであって、私たちはそれによって偏っている自分自身を知らされ続ける歩みをいただくしかありません。

世の中にうんざりするからこそ、いよいよ仏の教えに我が身を知らされる歩みをこの私からこそ始めたいものです。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
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質問者からのお礼

吉武文法 様
ご回答いただき、ありがとうございます。
「偏」…まさに私の性格(思考の癖)を表すような言葉だと思いました。
中道の考え方を取り入れることができれば、少しは自分が救われるような気がいたします。

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