開眼供養について
昨年夏に父が亡くなり仏壇を購入しました
菩提寺が父の故郷にあり49日と納骨を故郷で行いました
そこで菩提寺の住職さんに仏壇の開眼供養をしたいのでこちらの地域の同じ宗教のお坊さんを紹介してほしいとお願いしたところそんなのは必要ないよ、気持ちの問題だしお坊さんが儲かるだけだから、みたいな感じで言われたのでその時はそういものなんだと納得して開眼供養無しで毎日手を合わせているのですが本当に開眼供養は必要ないのでしょうか?
父にちゃんと届いているのか気になります
ちなみに宗派は臨済宗です
ご回答よろしくお願い致します
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
もう少し説明が欲しかったですね
ご相談拝読しました。お父様のご命終に謹んでお悔やみ申し上げます。
さて、開眼供養が必要ないと言われたその住職さんは中々面白いお坊さんですね。
でも、せっかくそのあたりをズバッと言うならば、なぜ必要ないのかまでもう少し丁寧に説明も欲しいところでしたね。現にこうしてあなたが不安を感じておられるのですし。
宗派や個人により見解も異なりますが、以下は私なりの説明です。
仏教は偶像崇拝ではありません。お坊さんの力や儀式によって仏像に不思議な力が備わるわけでもないです。法要をしないからといって悪い事があるということもありません。
そういう意味で言うならば開眼供養は必要ありません。
しかし、仏像の意義と言うのは美術品としての価値にあるのでなく、あるいは、摩訶不思議な力があるということでもなく、手を合わせる人が仏像を単なる物ではなく、ご本尊として見出すところにあります。そしてお仏壇はそのご本尊の仏様としての空間なのです。
そのために、つまりはこちらがそういう意味を見出すために、開眼供養等の法要は大切な意味があるもだと私は思います。
ご本尊に手を合わせるとは、こちらが仏様に自分のお願いをするのでなく、仏様の願いを私が聞くことなのです。こちらのお願いをするのであれば仏様よりも自分の願いを頼りとしていることになりますからね。
仏像はあくまでも仏様の願いや教えの象徴です。
お父様への思いについては、姿形のある命を終えていかれたお父様の存在はもうあなたを離れてあるものではありません。
届いていないと思う時も、届いていると思う時も、あなたはそのような形でお父様を意識しているわけです。そこに姿形を超えてお父様の願いがあなたにはたらきかけているのです。
「私はこうして先に命を終えていった。でも確かにあなたとこうしてつながっている。しかし姿形のある命をいずれはあなたも終えなければならない。どうかそのことの意味をごまかさず問いたずねてほしい」
という願いが声なき声としてはたらいています。時には安心感として、時には不安や寂しさとして、つまり、あなたを真実に目覚めさせる促しとなってお父様はおられるのです。
ご本尊に手を合わす中であなた自身において確かめられることでしょう。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました
お礼が遅くなり申し訳ごさいませんでした。
あれから開眼供養は未だにしていないのですが母が手を合わせお線香をあげてます。
自分も実家に帰った際には手を合わせています。
次の法要の時にもう一度菩提寺のお坊さんに聞いてみて考えたいと思います。
どうもありがとうございました。