彼が突然亡くなりました
初めてご相談させていただきます。
約1ヶ月半前に、3年間付き合ってた彼が、突然亡くなりました。
私たちは還暦を過ぎた熟年同士。
私は独身、彼には家庭があったため、そのことを私が知ったのは、亡くなった5日後でした。
彼とは、だいたい月1~2回会って、その間LINEのやりとりは頻繁にしていました。
そうこうしているうちに、ある日、LINEを送っても既読がつかず、翌日も翌々日も同じ。
今までそんなことは一度もなく、電話をかけるのも怖くて心配していたところ、共通の友人から、彼が急に心疾患で亡くなった、との連絡がありました。
最近の彼は、しんどいと、少し元気がなく、気になってました。
それなのに、私は何の力にもなれなかった。
彼が亡くなったなんて、私はまだまだ信じてないし、受け止めることもできません。
今は、しばらく会えない時期なんだと、たまたま連絡がつかないんだと、毎日泣きながらも、自分をごまかして、なんとか過ごしています。
私の一番大切な彼がもういない。悲しくて悲しくて、どうしようもなく辛いです。
仕事をしていても、笑うことができず、他の人とコミュニケーションがとれません。
ただ、私たちの関係を知ってる二人の友人に支えられています。
でも、励まされても、慰められても、友人は彼の代わりにはなりません。
私たち、ほんとに幸せで楽しい二人の時を過ごしていました。これからもずっと、この関係は幸せのまま続くはずでした。
彼に会いたい。彼に触れたい。声を聞きたい。抱き締めてほしい。
一日でも早く彼のところに、会いに行きたい。
今すぐ私も、彼と同じ病気で逝きたい。
夢ではなく、ほんとの彼にいつか会えるでしょうか?
こんな関係でも、私が逝くときに、迎えに来てくれるでしょうか?
今、それが一番の気がかりです。
まだまだ彼とのことを、過去の思い出にはしたくありません。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
再会のかたち
はじめまして、ご相談拝読しました。大切な方のご命終に謹んでお悔やみ申し上げます。
さて
>夢ではなく、ほんとの彼にいつか会えるでしょうか?
についてですが、「本当の彼に会うには、本当のあなたに会わなければならない」とお答えします。
『仏説阿弥陀経』というお経に【俱会一処】という教えがあります。これは「俱(とも)に一処(いっしょ=ひとつのところ)で会する」、つまり再会できるということです。
このような質問にはこの部分が切り取られて「必ず再会できますよ」と答えられることが多いのですが、実はこの教えには前段があり、そこには「諸上善人と」という言葉があるのです。
つまり、ただ亡き人と会うのでなく、「諸上善人」として会うのですね。「上善人」とはすなわち「善知識」。これは「私に仏法を伝えてくれる人」のことです。
亡き人の命の終わりを通して仏法に遇わせていただく。そこで残された人が「本当の自分」に会う。その時に亡き人が「私にとって仏法を伝えてくれる上善人であった」と見出されるのです。
死んでからではなく、亡き方を縁として手を合わせ、教えを聞くこの今において「上善人」として再会できるのです。
そうは言っても私たちはやはりこれまで通りの姿形として会いたい。そういう理想郷を求める。
浄土はそこに生まれたいと願う人が「皆」漏らさず生まれるところですが、誰かに会いたいと願う私たちにとって「皆」は本当に「皆」になっているのでしょうか?
自分が望む人とだけ会いたい、逆から言えば、会いたくない人もいるのではないでしょうか?
彼の家庭の皆さんはあなたの中の「皆」に入っていますか?
これはそういう差別のないキレイな心になりなさいとい言いたいのではありません。
浄土はどこかにある理想郷ではなく、教えとして今この私たちを目覚めさせてくれる「はたらき」としての場です。
浄土のはたらきにより明らかになるのは浄土など願っていない私たちの姿。自分の思う範囲の人だけの救いを求める私。
そうした世界を穢土(えど)といいます。亡き人を縁として、穢土を作る私が明らかになるとき、その時私たちは上善人としての亡き人に出遇っているのです。
そうして今この時において出遇いつづけながら、亡き後は必ずまた再会できるという物語に身をゆだねていけるのです。
ゆっくりと出遇い直していきましょう。
命の時間を大切にお過ごしください
初めまして、お早う御座います。
私も、30代前半で妻を脳腫瘍で見取りました。それから3年後にご縁がありお付き合いし始めた彼女を東日本大震災で失いました。当時はボロボロで日々を後悔と自分自身を追い込む日々を過ごし、自ら命を絶とうとして実行をしました。結果、蘇生されより苦しむ事になりました。
人の命は、スタートとゴールは一緒ですが、この世に生まれて同じスタートラインからそれぞれの人生というストーリーを歩み、ゴールを迎えます。生きる全て誰もが必ず通る道です。
四十九日とは・・愛した人や家族、友人と命の時間を過ごす大切な時だと私は思っております。生前に愛した人の心に魂がスッと入って、共に過ごします。共感をして想いを寄せ合って・・我慢せずに思い切り泣いて悲しんで。お互いが命の時間を過ごして、もう大丈夫・・そう思った時に、それぞれが新たな人生というストーリーを新たに描き歩みだす時間だと、実体験から思うようになりました。
この世は此岸(しがん)といいます。あの世は彼岸(ひがん)といいます。彼岸にいる方々は、私たちが悲しみながら想いを引きずって過ごす姿を望んではいません。思い切り泣いて悲しんだ後は・・笑顔に戻って、過去でもない、未来でもない、この瞬間という今を過ごすことがご供養にもなると思います。
純粋に祈ると、スッとご先祖様も愛した人も、友人も側に来て祈るその姿に微笑んで応えてくれます。
新たに描いた人生という冒険旅行を、あなたらしく過ごしてください。頑張らずに全てに当てはまる”ほどほど”が一番です。趣味やお友達との時間を過ごして、心のアルバムに想い出を刻んでみてください。いつか・・私も、妻や彼女のいる彼岸にたどり着きます。その時に刻んだ心のアルバムを開いて・・成長した子供たちのことや、過ごして来たストーリーを笑顔で伝え、思い切り抱きしめるその日まで自分らしく二度とないこの瞬間を笑顔で過ごそうと心がけています。
決して一人ではありません。目に見えなく感じ取れませんが・・必ず愛した人は心の中で生き続けています。弘法大師さまの”同行二人”のように、あなたを導いてくれるはずです。
苦しくなった時、いつでも私のお寺のメールにメッセージをください。
あなたらしく、人生という冒険旅行を仕合せに歩めますように。心からお祈り致しております。亡き彼様に心から南無大師遍照金剛 合唱
質問者からのお礼
ご回答、ありがとうございます。
現実には、もう彼には会えないことは、充分にわかってます。でも今はまだ、絶対に会う、と思わずにはいられません。
もしも、いつか会うことができたら、その時は、彼に「何を情けない顔してるんや!」と怒られないようにしないといけませんね。
このような相談させていただく場があり、また話せる友人がいることは、すごく救われています。
ご回答、これからも何回も読み返させていただきます。
本当にありがとうございました。