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慈悲とは
ご相談拝読しました。
「慈悲の心を持つと」というこを前提にする前に、「慈悲」とは何かという問題があります。
「慈悲」とは「抜苦与楽」
対象を憐み慈しむだけでなく、苦を抜き楽を与えることができての「慈悲」です。
はたして私たちにそんなことが可能でしょうか?
「慈悲の実践」はできなくとも「慈悲の心」を持つくらいなら…と思うかもしれませんが、純粋に対象のことのみを思うということが私たちに成り立つのでしょうか?
つまり慈悲とは私たちの心でなく、仏様の心なのです。
私たちにできることは誰かを助けてあげることでなく、一緒に仏様の教えに出会っていこうねということなのではないでしょうか。
あなたが誰かを思う事で「人生がより苦しくなる」とお感じならばそれはもう仏教の教えとの出会いへの促しです。
この苦をいかがせん!?
というのが仏教ですから。
慈悲っていいもんだよ!
te08さま、こんにちは!
慈悲を知るのは、菩薩の心を知ることにつながります。なので、菩薩の生き方を学ばれるといいでしょう。
たとえば、目の前の人に罵声を浴びせられると、多くの場合、自分の大事な名誉が、自尊心が傷つけられ、時には涙するでしょう。自分の、私の大事な…という、自我が、苦しみの因になっていることが分かりますね。
菩薩の心でこのような状況に挑むとどうなるかといいますと、目の前の人の苦しみがよく見えるようになります。罵声を浴びせている人が、苦しみをこちらにぶつけており、悪い言葉をはく、悪い因となるような行いを積んでしまうことに、憐れみ、悲しむのでしょうね。
『37の菩薩の実践』より引用します。
「自分の子どものようにかわいがって育てた人が、 自分を敵の如くみなしたとしても、 病気にかかった子供に対する母のように 一層愛情をそそぐのが菩薩の実践です。」
病気にかかった子どもに対する母のような心であるならば、自分の身の心配なんて、してる暇はないですよね。このとき、無我であるとも言えましょう。
『入菩提行論』より引用します。
「誰かに聖なる宝の心(菩提心、菩薩の心)が生じたならば、私はその方のお体に礼拝する。その方に害を加えることさえも楽の縁となる、楽の源に帰依する。」
つまり、「私を害することさえも、この人のためになりますように」という対応を、慈悲と智慧で導いていくのです。こういう対応、生き様は、もはや「法」と呼ばれる域にあります。上記の2つで引用した偈は、チベット仏教でよく読まれているものですが、日本の僧侶も負けてません。
臨済宗中興の祖、白隠禅師のエピソードをご覧ください。
https://www.nenpoushinkyou.jp/jougo/46.html
『入菩提行論』に書かれてあることが、誇張ではないことが分かるお話ですね。「人のため」ということを、ここまで掘り下げている宗教や思想は、この仏教以外にはないかと思います。論理面でいえば、「自分を棚に上げる」というパラドックスを避けながら、しかも教えを広めていくということに成功してる唯一の宗教といえます。慈悲と聞くと、素朴に「優しさ」という側面がクローズアップされがちですが、実は、仏教の完璧な論理に裏打ちされているために、優しさの極みに昇りつめることができている、とも言えますね。
怒り(不愉快)のストレスが減る
慈悲の心が発動している時間は、イライラ・嫉妬・憎しみ・不満などの怒りの煩悩が治まります。
つまり、人生の中で慈悲の時間を増やせば増やすほど、不愉快な時間、ストレスを感じる時間が減ると言えます。
なので、慈悲が多い人の人生は、快適になると思います。
慈悲があってもなくても苦しみはあります。
やるべきこと、やらなきゃならないことは常にある。人生や社会をケアし続けなければならない、メンテナンスし続けなければならない苦しみは、常にあります。
しかし、怒りの煩悩が減るとストレスが減ります。
他人のためにやることを、自分のためにやることの2倍面倒くさいと感じるのか、自分のためにやることと同程度に普通にやるのか。
イヤだイヤだと思いながらやるのか、べつに普通のことだと思ってやるのか。
認識の違いでストレスは減ると思います。
質問者からのお礼
願誉浄史 様
分かりやすくお教えいただきありがとうございます。
自分は慈悲を持ったことはあまりありせんが、慈悲は「イライラ・嫉妬・憎しみ・不満などの怒り、不愉快のストレスを減らす」というのは分かる気がしました。
どうせやらなきゃいけない苦しみがあったら、慈悲を持ってストレスを減らしてみようと思います。
吉武文法 様
ご回答ありがとうございます。
慈悲とは仏様の心なんですね。確かに、他者のことだけを思い抜苦与楽することは普通できないですね。
自分には苦が沢山ありますので、仏様の教えに助けてもらい苦を減らしていこうと思います。
Shunkai様
ご回答ありがとうございます。
自我が、苦しみの因になっているというのはなるほどと思いました。
病気にかかった子どもに対する母が無我であるように、慈悲の心、菩薩の心があるときは自我がないので、苦しみもないということですよね。
菩薩の心を持つと、罵声を浴びせる人の苦しみが見えてくるようですが、そうなると「この人も自分と同じで苦しんでるんだな〜」みたいな感じで敵に見える者が減っていき、世の中が快適に見えてくる気がしました。
『37の菩薩の実践』や『入菩提行論』は専門的で難しそうですが、菩薩についてもいろいろ調べてみようと思います。
白隠さんの話もドラマみたいで良かったです。