hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

慈悲は人生の苦しみを減らしますか?

回答数回答 3
有り難し有り難し 34

慈悲の心を持つと他者の苦しみまで背負うことになって人生がより苦しくなると思うのですが、そうではないのでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

慈悲とは

ご相談拝読しました。

「慈悲の心を持つと」というこを前提にする前に、「慈悲」とは何かという問題があります。

「慈悲」とは「抜苦与楽」

対象を憐み慈しむだけでなく、苦を抜き楽を与えることができての「慈悲」です。

はたして私たちにそんなことが可能でしょうか?

「慈悲の実践」はできなくとも「慈悲の心」を持つくらいなら…と思うかもしれませんが、純粋に対象のことのみを思うということが私たちに成り立つのでしょうか?

つまり慈悲とは私たちの心でなく、仏様の心なのです。

私たちにできることは誰かを助けてあげることでなく、一緒に仏様の教えに出会っていこうねということなのではないでしょうか。

あなたが誰かを思う事で「人生がより苦しくなる」とお感じならばそれはもう仏教の教えとの出会いへの促しです。

この苦をいかがせん!?

というのが仏教ですから。

{{count}}
有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
このお坊さんを応援する

慈悲っていいもんだよ!

te08さま、こんにちは!

慈悲を知るのは、菩薩の心を知ることにつながります。なので、菩薩の生き方を学ばれるといいでしょう。

たとえば、目の前の人に罵声を浴びせられると、多くの場合、自分の大事な名誉が、自尊心が傷つけられ、時には涙するでしょう。自分の、私の大事な…という、自我が、苦しみの因になっていることが分かりますね。

菩薩の心でこのような状況に挑むとどうなるかといいますと、目の前の人の苦しみがよく見えるようになります。罵声を浴びせている人が、苦しみをこちらにぶつけており、悪い言葉をはく、悪い因となるような行いを積んでしまうことに、憐れみ、悲しむのでしょうね。

『37の菩薩の実践』より引用します。
「自分の子どものようにかわいがって育てた人が、 自分を敵の如くみなしたとしても、 病気にかかった子供に対する母のように 一層愛情をそそぐのが菩薩の実践です。」

病気にかかった子どもに対する母のような心であるならば、自分の身の心配なんて、してる暇はないですよね。このとき、無我であるとも言えましょう。

『入菩提行論』より引用します。
「誰かに聖なる宝の心(菩提心、菩薩の心)が生じたならば、私はその方のお体に礼拝する。その方に害を加えることさえも楽の縁となる、楽の源に帰依する。」

つまり、「私を害することさえも、この人のためになりますように」という対応を、慈悲と智慧で導いていくのです。こういう対応、生き様は、もはや「法」と呼ばれる域にあります。上記の2つで引用した偈は、チベット仏教でよく読まれているものですが、日本の僧侶も負けてません。
臨済宗中興の祖、白隠禅師のエピソードをご覧ください。
https://www.nenpoushinkyou.jp/jougo/46.html

『入菩提行論』に書かれてあることが、誇張ではないことが分かるお話ですね。「人のため」ということを、ここまで掘り下げている宗教や思想は、この仏教以外にはないかと思います。論理面でいえば、「自分を棚に上げる」というパラドックスを避けながら、しかも教えを広めていくということに成功してる唯一の宗教といえます。慈悲と聞くと、素朴に「優しさ」という側面がクローズアップされがちですが、実は、仏教の完璧な論理に裏打ちされているために、優しさの極みに昇りつめることができている、とも言えますね。

{{count}}
有り難し
おきもち

菩薩になりたいです。 仏教は、ほんとうにすばらしい教えだと思います。...
このお坊さんを応援する

怒り(不愉快)のストレスが減る

慈悲の心が発動している時間は、イライラ・嫉妬・憎しみ・不満などの怒りの煩悩が治まります。
つまり、人生の中で慈悲の時間を増やせば増やすほど、不愉快な時間、ストレスを感じる時間が減ると言えます。
なので、慈悲が多い人の人生は、快適になると思います。
慈悲があってもなくても苦しみはあります。
やるべきこと、やらなきゃならないことは常にある。人生や社会をケアし続けなければならない、メンテナンスし続けなければならない苦しみは、常にあります。
しかし、怒りの煩悩が減るとストレスが減ります。
他人のためにやることを、自分のためにやることの2倍面倒くさいと感じるのか、自分のためにやることと同程度に普通にやるのか。
イヤだイヤだと思いながらやるのか、べつに普通のことだと思ってやるのか。
認識の違いでストレスは減ると思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

願誉浄史 様
分かりやすくお教えいただきありがとうございます。
自分は慈悲を持ったことはあまりありせんが、慈悲は「イライラ・嫉妬・憎しみ・不満などの怒り、不愉快のストレスを減らす」というのは分かる気がしました。
どうせやらなきゃいけない苦しみがあったら、慈悲を持ってストレスを減らしてみようと思います。

吉武文法 様
ご回答ありがとうございます。
慈悲とは仏様の心なんですね。確かに、他者のことだけを思い抜苦与楽することは普通できないですね。
自分には苦が沢山ありますので、仏様の教えに助けてもらい苦を減らしていこうと思います。

Shunkai様

ご回答ありがとうございます。
自我が、苦しみの因になっているというのはなるほどと思いました。
病気にかかった子どもに対する母が無我であるように、慈悲の心、菩薩の心があるときは自我がないので、苦しみもないということですよね。
菩薩の心を持つと、罵声を浴びせる人の苦しみが見えてくるようですが、そうなると「この人も自分と同じで苦しんでるんだな〜」みたいな感じで敵に見える者が減っていき、世の中が快適に見えてくる気がしました。
『37の菩薩の実践』や『入菩提行論』は専門的で難しそうですが、菩薩についてもいろいろ調べてみようと思います。
白隠さんの話もドラマみたいで良かったです。

「仏教における慈悲」問答一覧

無償で人を助け続けることについて

はじめまして。 無償で人の要求に応え(助け)続けることとは、仏教的には何なのか、続けることに嫌な気持ちを持つ理由は何なのか、嫌になった場合はどうしたら良いのか、などお話伺いたいです。 きっかけはバイトです。 現在北欧に住んでおり、仕事はレストランでのバイトです。バイト先にはジプシーが大抵1日3人ほど来ます。 ジプシーとは、道で物乞いをするホームレスのような人々のことです。ヨーロッパで多く見かけられ、北欧にもいます。 彼らは決まって「カップとお湯をくれ」と横柄な態度で要求してきます。 私の何人かの同僚は、一切断っています。 理由は、1人の要求に応えると他のジプシーがどんどん来てお店がお客さんとジプシーで忙しくなるから、とのこと。 他の同僚と私は、たかがお湯を渡したところで減るものは無いし(店としては、カップ代の損失)、無銭でご飯を要求されているわけでも無いので、毎回要求されたら渡してきました。これで誰かが助かるなら渡した方が良いし、渡さないのは冷たいとも思ってました。 しかし、繰り返されるごとに段々嫌な気持ちになるようになりました。 お店が忙しいある日、1人のジプシーがいつも通り要求してきました。彼は2つ欲しいと言いました。ただでさえ忙しくてイライラしてるところに、嫌だなと思い始めてたジプシーの要求が来て、私は腹が立ちました。この怒りから早く解放されるために、彼に早く帰ってもらいたくて、私は2つお湯を渡しました。 ところが続けてまた別の1人のジプシーがお店にやって来てお湯を要求してきました。私の苛立ちは更に悪化して、お湯が無くなったと嘘をついて彼に早く立ち去ってもらおうとしました。 しかし彼はもらうまで帰ろうとしませんでした。なぜなら、前のジプシーが2つももらってるところを見たからです。 結局別のスタッフにお湯が無くなったことを説明してもらい、彼に帰ってもらいました。 なぜ私は、人助けを段々嫌になっていったのか、なぜある人は助けてある人には怒ったのか、自分の人助けへの感情や思考がわからなくなりました。お湯をあげる行為は1分で済み、それ以外の損害は私にはありません。 仏教的に、人助けとは何なのでしょうか、そもそも助けるという考えが誤っていますか。私の感情や思考方法について何かヒントがあれば教えてください。 最後までお読みいただきありがとうございました。

有り難し有り難し 28
回答数回答 2

慈悲の心を持つためには?

私は精神に病気を持ち、人生で2度の自殺を経験しています 生きる意欲がわいてこないというわけではなく、食べていくために働かなければならないということが受け入れられず、死のうとしました それはすでに自分の中で消化しすでに悩みではありません 問題は、食べていくために嫌な仕事をひたすらやり、その姿勢から同僚や上司をとても苦しめてしまったということです 今はその仕事をやめて無職ですが、以前人を苦しめてまで生きていた頃の自分を思い出すと、とてもやるせない気持ちになります 生きていくために仕方がない、それで周囲を傷つけてしまった こんなことなら死んでいたほうがはるかにましかもしれない、そういう道もあったんだと考えています 今は生きることに迷いもなく、死んでいくことも怖くはありませんし、私はあの世を信じていないので裁かれる心配もありません ただ、どうしても昔の自分の生き方に後悔を持って、今はそれに苦しんでいます 仮に因果応報が私の身に降りかかったとしても覚悟をして生きているので素直に裁かれるつもりはありません ただ、覚悟だけを頼りに生きると周囲の人にも覚悟を求めてしまい以前の自分と何も変わりません 自分は十分に傷ついたと思いますが、それを優しさに変えることができません 慈悲の気持ちを持つにはどうすればいいでしょうか?

有り難し有り難し 15
回答数回答 1

間違った教えの見分け方

前回の質問の回答が、よく分かりませんでした。 (※特定の宗教団体に関する書き込みがあったため、質問は削除されたみたいです。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Q「慈悲」は人によって全く違うのか あるお坊さんの問答にて1 「私は仏様の存在を感じることが出来ます。けれど、周囲にこの話をしても誰も信じてくれません」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「それはとても悲しいことですね。その人はかわいそうな人です。地獄に落ちるように祈ってあげましょう。それも慈悲なのですよ」と。 別のお坊さんの問答にて2 「過去に人からされたことで苦しんでいます。どうすればいいでしょうか」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「自分は遥かに優れていて、相手は可愛そうなのです。そのように見てあげる慈悲の心を持ちなさい」と。 どちらも実在するお坊さんの問答です。 慈悲とは何でしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この回答で、 「そのお二人のお坊さんの言葉は慈悲の間違った使い方だ」 というご意見と 「この言葉・表現により、仏の悟りが具体的にその人にはたらくならばそこには「慈悲」があるのです。「その人の」ではなく「仏の」慈悲です。」 というご意見がありました。 双方、慈悲についての説明があり、仏教にとって「智慧」と「慈悲」はとても大切なものなのだと知りました。 しかし、間違いないのか間違いではないのか分からないまま終わりました。 非仏教徒である私や詳しくない人は、例に挙げたような話をされると、言葉通りの意味=仏教でいう慈悲なんだと信じてしまいます。 間違っているのでしたら、どのように間違っているか。 どのように見分ければよいのでしょうか。 仏教に無知な私にも分かるように教えてください。 お願いします。

有り難し有り難し 25
回答数回答 3

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ