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防衛

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有り難し有り難し 22

自分を守るために死を選ぶのもありだと強く強く思うようになりました。
詳しく何々があり、こういう事に苦しんでいるという具体例をあげるのが本来でしょうが、ごめんなさい、いろいろと小さい事がたくさん積み重なった結果で、何をどう書き示したら良いのか分かりかねてしまぃした。
そこで、お坊さんの心の自己防衛法を教えていただけませんか?
また、心は修復可能なのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心というものを自らこういうものだと思い誤ることで苦しくなる

あなた自身が他人からこういう人間だ、こういう女だとまるで違うように思われたら苦痛ではないでしょうか。
真実を正しくとらえてくれないことは苦しいでしょう。
あなたの心もそうだと思うことです。
人間というのは9割がたの人が心とか自分というものを誤解しているのです。
どう誤解しているかというと「私がこう考えた」というものを大事にしていることが無自覚の大きな思い違いなのです。
本当の姿をまるで見ないまま推測で扱っていることです。
お釈迦様や仏道を通して自己の本当の姿を明らめられた人たちはみなこの「私がこう考えた」という小さな水槽から自由になって大海で自由に泳ぎ、大空を自由に飛び回れるようになった人たちです。
たとえばあなたが好きな芸能人、嫌いな芸能人がいたとして、その人たちの噂一つでイメージも変わるでしょう。
同じように情報というものは真実をゆがめるものでもあるのです。
先立てているもの、先立てて優先的に脳内で選択・チョイスしているものが「私がこう考えた」ものであると、人間は自分の本当の姿を目にすることができません。

坐禅をする、瞑想をする、仏道修行をするとは、この自分自身をして常に優先している自分が自分が意識=自分ファーストな心を完全にやめてしまい、今来たっていることの授かりの中に考え以前の真実の姿があることを受け止められるようになることです。
色々、思うことは多いと思います。
ですが、思う前の世界があることを知りましょう。
そしてその世界を知ろうとするには考えや思いをツールとして探求しても見つからないことを知り、体感・知覚・感受の頭脳を大事にして自分自身を見つめてみる事です。そうする中でお経に説かれているような世界が開かれてくるのです。
仏教は自分ファーストではなく、自分が考えたことファーストでもなく、まず、そこで出会っていることファーストなのです。
この回答もやりとりも一期一会。二度とない事なのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元 様
お忙しい中、ご回答をいただきまして有難うございます。
無意識のうちに、脳内でアレやコレやと自分を基準に考えてしまっているから苦しく辛くなる、という事でしょうか。それを、座禅や迷走、仏教を学ぶ事で無になり、ただ五感だけで感じるものオンリーが真である、という事と捉えました。
現代を生きる上では、なかなか難しい事ではございますが、確かにそうだな・・・と思います。「こうでなくては、ならない」。それが社会なので当たり前になりがちです。という考えもまた、脳が勝手に考えてしまっている事ですが。無になり解き放てば、また新たな路が切り開かれるかもしれません。
丹下さんに出会え、ご回答をいただけましたこと、心より感謝しております。
ありがとうございます。

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