僕はどうしたらいいのでしょう......
阿弥陀仏の本願は素晴らしい 。しかし、やっぱりあまり意味がないように思えてなりません。例え本願を信じられなくとも(一般的な意味)、阿弥陀仏側からの働きかけなので、救いに影響はありません。
しかし、そうなった場合、現世での利益はなんですか?自分の愚かさが分かることですか?
死後に浄土に往生できると信じられる人々(妙好人など)なら現世では安心して幸福に暮らせるでしょう。
しかし、僕のような疑い深い人間が幸福になれるとは思えません。
信心獲得すると、死後の解決や不思議な幸福感があるのだと思ったのですが、どうやらそれはないようです。
だとすれば、一体何の意味があるのかと思ってしまいます。
それとも、煩悩具足の人間が幸福を求めること自体間違っているのでしょうか?
念仏申す生活もしてみましたが、信仰できないので念仏を胡散臭く感じてしまいます。
僕はどうすればいいのでしょうか。
HSP気質で生きづらく、人目を気にするあまりすごく不器用な人間です。 しかしデメリットばかりではなく、生きづらいからこそ、生きづらさを解消するために色んな本に手を出しましたし、仏教に出会うことができました。 人生において様々な悩み事があり、お坊さんのご意見やアドバイスをいただきたいと思いました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そのまま聞き続けましょう
ご相談拝読しました。熱心に浄土真宗の聞法をされているのですね。
その疑り深さはとても大事なことなのではないでしょうか。
私自身も含めて多くの人は、聞法を続けているとなんとなくわかったことにしてしまったり、本当はわかってもないのに周りのみんなが有難がっているから自分もそれに合わせてなんとなくそんな気分になってみたり、ということがあるのだと思います。
でもきっとそういうものは現実の苦しみの前には脆くも崩れ去っていくのでしょう…。
さて、
>念仏申す生活もしてみましたが、信仰できないので念仏を胡散臭く感じてしまいます。
とのことですが、お念仏申すことで自分がどうにかなると思っているのではないでしょうか。
つまり、念仏を手段として、その効果によって自分に何らかの変化が起きるのではないかと。
確かに何一つ何も変わらないならばやってもやらなくても意味はないのかもしれません。
しかし変化をを期待するのは実は念仏ではなく、念仏により「変化する自分(の何か)」を頼りとしているということなのではないでしょうか。
私は今現在の理解としては「念仏(とのであい)」そのものが救いなのだといただいております。
歎異抄後序「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
私の中にもこの世界にもどこにも何一つ救いの根拠はなかった。その私がただ一つ「まこと」と呼べるものに出遇う。
私の中にあるものでないからこそ、私の在り様に左右されず、常に私の外からはたらきかけ続けるのです。
自分の愚かさは自分の知識や経験で分かるものではありません。わかった気になるのは自分が壊れない程度の、「まあこのぐらい自分を貶めておいたらいいだろう」というくらいの自己反省に過ぎないのかもしれません。
わかるとかわからないとかでなく、「まさにその通りでありました」と頷かされるのが本願との出遇いではないでしょうか。
今現在、あなたは幸せであるとは感じられなくとも、実は自分でどうにかなる・なれると思っているのではないでしょうか。
もちろん私もそうなのですが…だからこその阿弥陀仏の本願なのですね。
南無阿弥陀仏
質問者からのお礼
吉武文法様、回答ありがとうございます。実は以前から質問者様に対する吉武様の回答を拝見していて、とても学びがあり、勇気を貰っていました。このように直接回答させていただき、とても光栄です。
僕は念仏申すことによって、何かが変わると思っていたのかもしれませんね。しかし、それは自分の心を頼っているだけなのかもしれません。「自分の力でどうにかなる、できる」とも思っています。
最近は、念仏なんかよりも、瞑想した方が自分のためになるのではないか、と考えていました。念仏には効果を感じられませんが、瞑想だと睡眠の質が良くなったり、頭がスッキリしたりと効果を実感できます。だが念仏は何も感じない。
しかし、真宗的に言うと効果を実感できてしまうと、自分の心を頼りにしてしまうので、効果がないからこそ阿弥陀仏に頼れるのかもしれませんね。
それに、吉武様の言う通り、僕は少し分かったつもりになっていたのかもしれません。
念仏と聴聞を続けて精進していきたいと思います。