貴方は何のために生きていますか?
こんにちは。受験を終えた浪人生です。志望していた大学に落ち、去年合格していた大学と同じような学力のレベルに進学することになりました。事実を変えることはできないですから受け入れています。悲嘆はあれど後悔はあまりありません。満足しなかったからやり直した、そうしなければいられなかったというだけでした。
己は何が欲しかったのか、手段が目的化していなかったか、と考えます。私も含め多くの学生が学業に身を捧げるのはとどのつまり、良い大学に行きたい、とただ願っているだけということが往々にしてあるのではないでしょうか。勝利の名誉が欲しい。上位者としてありたい、良い企業に入りたい。そういった漠然とした気持ちと、学歴は絶対ではないのはわかっている。ただそれしかない、そうでなければ自分ではいられない。言葉にも直せない。だから皆その差に苦しんでいて、コンプレックスという形に当て嵌められてしまうのかもしれません。目的さえ達成できればそれでよかったのに、社会の陥穽にはまる。その先もなく夜に怯える。より良いものになるはずの一手段が無くなったことにより理念ごと崩壊する、これが目的化ですね。
そこが私の敗因だったかはさておき、もう一度なぜ我々は生きるのか考えてみたく、世捨て人であるお坊さんの一意見を賜りたいです。平安人は地位あれど身をやつすことを望んでいましたよね。世間の序列や地位への執着を捨てた、という意で解釈していただければ。
私は生きる意味は確かに一義的に決めることはできないと思いますが生きた意味として考えるならばやはり「残したもの」につけるかなと。植物も動物の存在理由は明快に種の存続であり、ただ人間は遺伝子情報以上に色々な情報を残すことができたという違いです。
であれば逆説的に生きる意味は遺すこと、と考えられます。何も為せず、子も為さずということは結実なく枯れる花に同じ、それでも土に還るように世に捧ぐのでしょうが。勉強も昇進も生ですら意味をなさないのなら、それを飲み込みまだ見ぬ私でない残った私が幸せであれるよう生きるように努力するべきか。
仏教でさえググるとその定義は一つではないように思えます。人には人の試練がありそれを救えるのは人だけであって、神の教えがあったにせよその教えも人のものとなってしまったのでは。本当に仏教の教えに誤りはないのですか。
正即煩悩也
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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旬を味わう
まずは受験おつかれさまでした。
今年はいろいろとあって、苦労も一入であったことと存じます。
仰られているように、大学に入ることが目的になってしまう、
ということは往々にしてあるもので、そこで「何を学ぶか」は、
どこかへいってしまうこともあるため、そのあとの社会にて
路頭に迷うこともあるのだろうと思います。
どこであっても「学ぶ」ことが「大学」であるわけで、
近年の企業もそうした学生の姿勢を見抜くチカラを高めて
(じゃないとあとあとやめられたり不祥事起こされても困るので)
いるものと見受けるものです。
さて、ではそんなわたしの生きる意味とはなにか、というのが
わからなくなってしまうということも古今問わず命題になります。
小生自身のことをいえば「生きる意味」なんて
今考えても意味ない、ということにつきます。
そのときそのときでわたしのいのちの意味なんて変わってしまう
からです。未来を見据えることはできても、それがそのまま
来ることもない。であればいま、ここ、このいのちを
「どう活かすか」
生かすのではなく、活かす。旬を味わう。
小生自身はそのことを大事にしています。
仏教は「諸行無常=すべてものごとはとどまらない」
を根底においています。しかし、これを頭だけで理解することは
出来ません。これは本当に難しい教えです。
全身で実体験し、味わうところに仏教の深さと面白さ、そして
お釈迦様の慈しみあついおこころがあると、小生は思っています。
だから疑いません。
あなたにはあなたの「教え」がある。それは仏教や神様の教え
に限るものではないものと考えます。
それを見つめに大学に行く、それもいまのあなたの「旬を味わう」
ものになるのではないか、まことに勝手ながら小生はそのように
思っております。
すばらしい大学生活になりますように、心よりお祈り申し上げます。
あなたにさちあれ。さちあれ。
屁
質問者からのお礼
ありがとうございます。この敗北が一握りの不運か怠惰なのかはわかりませんが、きっと寝て起きて昨日の自分を消しながら、日々を苦悶と喜びと繰り返しながら、それでも生きていくのでしょう。貴方の努力が、勤勉が報われますように。
ありがとうございます。きっと人の道が無数にあるように、仏教はその教えの一つでしかないのでしょう。キリストもモーセもムハンマドも、老子もそれぞれの道で悟りに、根元に至ろうとしたのでしょうね。そして、きっとその道は終わった後からできるものなのでしょう。諸行無常と、生は流転と思いながら、今を貴方は活きている。生は瞬きの内に消えるとして、輝いている。桜は咲くからこそ美しくあるのではない。散るからこそ美しい。貴方の生に苦楽と、煌きあれ。