苦しいです。
私は保育士をしていました。1つ目のところをパワハラや保育士が子どもに対してモラルにかける保育をしているのを見るなど、様々な理由から精神疾患が悪化して辞めざるを得なくなりました。
その後就いた保育園で、「この子達は絶対見守るんだ!!」という決意で最大限の愛を注ぎました。0歳児担当でした。
保護者と離れて寂しくないように、たくさんの人から愛されて生きていることが分かるように、常に「大好き」を言葉にして伝えていました。
誕生日には「生まれてきてくれてありがとう」を伝えました。
保護者の方々もモンスターが多いとほかの保育士がぼやく中、私には「次の学年も先生がいい」「うちの子先生のこと大好きなの」「先生、いつも真面目で一生懸命って話してた」とたくさんの嬉しい言葉を頂いていました。
その後、そのままその子たちと共に1歳児クラスになりました。
ただ、契約社員だったのをほぼ強要されるように正社員になり、ほかの保育士から目をつけられるようになり、接するのも保育をするのも怖くなりました。
保育士たちの子どもたちに対する態度も悪く、自己中な態度ばかりで「この子たちを守りたい。守らなくては。」と常に愛の言葉をかけ続け、抱きしめていました。
もうその頃にはボロボロだったような気がします。
「今日行ったら死のう」「今日帰る時に死のう」「今、ここで飛び出したら死ねる」
等、毎日思っていました。でも、「子どもたちを守りたい。愛を知って生きて欲しい」と思って何とか毎日繋いで生きて、仕事に行きました。
ですが、ある日過呼吸になりそのまま仕事に行けなくなり、園長とも話せず親に取り繋いでもらって辞めざるを得なくなりました。
最後まで、愛を伝えたいと手紙を書いて渡してもらうようにしました。渡したと言っているようですが、実際そのあたり適当な所なので分かりませんが…
辞めたあともずっと忘れられません。後悔ばかりが残ります。
3年が経とうとしているのに、心の中にはずっとあの子たちがいます。あの子たちの幸せを切に願う自分がいます。
「何で耐えられなかったのか」という気持ちもずっと残ります。
苦しい心をどうしたらよいのか分かりません。
長々とすみません。
お坊さんからの回答 2件
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愛は私有化できない
ご相談拝読しました。
あなたはボロボロになるまでとてもよく頑張ったのですね。しかし耐えきれず倒れてしまったのですね。
学んだことは、個人の愛には限界があるということではないでしょうか。あなたは孤軍奮闘はしたが、理解されず孤立を感じていたのではないでしょうか。
一人で頑張ろうとせず、「愛のある場」を作ることが園としても大切だったのかもしれません。
でも、あんな人たちじゃダメだ、どうせわかってもらえないなどという思いも浮かぶかもしれません。
けれどあなたは同じことを子どもたちにも思ったでしょうか。何かが上手くできなくてもそれでもその子を愛の眼差しで見ていたのではないでしょうか。
一人で成し遂げられることは少ないです。あなた自身がどうあるかということはもちろん大事なことですが、あなたが他の人とどのような関係を築き、共にどのような場を作っていくのかということも大事なことだったと思うのです。
あなた一人が耐えることができたらそれで良かったという問題ではないのでしょう。
本当の愛は私有化できないものです。私一人が愛せればいいというのでなく、愛するとはどういうことかを皆で課題として取り組んでいける場こそが愛あふれるものなのではないでしょうか。
そしてあなた自身も愛されたかったのだと思います。
あなたがしたことは無駄ではありません。当時のあなたはやり切った。でも今こうして課題に気がついたならば、これからのあなたは過去のあなたの頑張りや学びを活かしてより深く広い愛を求めていけるのではないでしょうか。
割り切った対応も大切です
保育士のお勤めお疲れ様です。色々試行錯誤しながら頑張ったと思います。今は距離を於いて自分を振り返りましょう。
さて、ここからは反省点です。あなたは自分は頑張ったばかり、自分しか頭がないように私はこの文章から観られました。あなたが頑張ったから契約社員から正社員にしてくれた園長さんにも怨み節、保護者にも怨み節、同僚にも怨み節。一体あなたの味方は誰なんでしょう。勝手に敵を作っているように私は観えました。あなたの周りはあなたのために生きている訳ではありません。それぞれ事情を抱えてその人なりに愛情を注いでいるのです。もっと周りの動きをみてほしかったです。保育園の主体は園児かもしれませんが、この世の主体は一人一人なのです。もっと周りの個性をみてください。自分一人の力の無力さを痛感してください。