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取り付かれた?と思うことがたまにあります。

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有り難し有り難し 19

こんにちは、よろしければご意見を聞かせてください。

たまにですが、自分ではない人格が出てきたように感じることがあります。

例えば、何年か前、彼氏ができたときには、まるで自分ではないかのような言葉遣いで、性的な発言をたくさんしていたようです。
「していたようです」というのは、ほとんど自覚がなく、すぐ忘れてしまって、
「そういう言葉を遣ってほしくなかった」
と、後で言われた時気づいたものです。
私は、そういえばそんなことあったっけ…くらいでしたし、私がそんな言葉を遣ったことに、後々驚愕でした。

また、習い事の先生を好きになったかのように感じたことがありました。
が、それは2週間ほどで消えました。

その時は、もう少しで先生に告白してしまいそうになっていたのですが、
雰囲気によってはやめておこうと思っていて、実行されなかったのです。
その直後、「あれ、全然好きではなかったな…何だったんだろう
?」と思いました。

つまり、「あれは誰の感情だったの?」と思うことがたまにあるんです。
そういう感情に振り回されることが、たまにあるんです。

レッスン室にゴーストでもいたのかしら?と思ってしまったくらいだったのですが、そういうことってあるのでしょうか?

それとも、すべて自分の持っていた性質が何かのきっかけに出てきただけでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

外から要求された自分であろうとしない

(♯'ω'♯)こんにちは。皆さん新着質問を先に答えられている所を見ると答えづらいようですのでアダルト部門担当?の私の出番ですか。
性的な♡発言が無自覚にポロリしてしまうとのことですが、まず、そもそも、大きな本屋に行けば男女問わずアダルト♡コーナーはあります。だれでも脳内に性的な事に関する情報はそこそこ蓄積されているのは自然なことではあります。
中村うさぎさん、岩井志麻子さん、檀蜜さんの如く公然の場で呼吸をするかのようにシーモネーターを連発するほどの境地に至れば話は別ですが、状況によってはセクハラにもなりかねませんので、オフィシャルな場では慎み、控えるべきものです。
ですが、たまさんは自覚がないとのこと。
臓器移植を受けた方は自分に自覚のない人格が現れるというケースはある様です。
おそらく推論ですが、単に過度に自分の感情を抑圧し続けたことがあったのではないでしょうか。
深層心理、潜在意識には日頃抑え込まれている感情が眠っています。
・外から要求された自分を演じ続けてきた。
・無理してイイ子ちゃんであり続けてきた。
・自分が欲する何かを禁止してきた、されてきたことがあったり、
無理して人サマの前で自分本来の自分らしさを抑えこんでいたことはありませんでしたか?
❝過度に❞自分を抑圧してこなかったかどうか?していないかどうかを振り返ってチェックしてみてください。
もし、そうであった、そうでなかったにせよ、今後は日ごろから自分に嘘をつかない、無理しない、我慢し過ぎない生活をすることをお勧めします。
ある俳優は役柄を演じることばかりで自分本来の自分らしさが何であるかが分からなくなってしまった、といいます。
和尚の世界でも、なりたくもなかった和尚であろうとする自分に無理があり、ぼかーんと爆発してしまった人もいます。
自然の中で自分らしく生活をする事で自分を取り戻せる、と言います。
抑圧、演じる事、イイ人であろうとする事、自分がしたいことを過度に抑え込んできたことの反発として甘えられる相手、そのままの自分でいられる相手の前で、抑圧していた気持ちが少しずつ、現れただけ、自分が自分を開放したがっていた、と捉えられてはいかがでしょうか?

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

心の問題

たま様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「取り憑き」、「憑依」や「霊感」に関連することにつきましては、下記の問いの拙回答にても少し扱わせて頂いております。

問い「取り憑かれている人」
http://hasunoha.jp/questions/126

正直、「憑依」や「霊感」に関することは、宗教的な面から捉えようとして考えますと、その根拠や論証の曖昧さが生じてしまうため、非常に難しい問題を孕むこととなります・・

そのため、「憑依」・「霊感」云々は別として、心の問題が内面において控えている場合もありますので、心療カウンセリングやメンタルケアを受けられてみることも、もしか致しますと解決へと向けた一つの有効なことになる場合もあるかと存じております。

もちろん、例えば、それを一律に何か「○○障がい」、「パーソナリティ障がい」、「人格障がい」と断定的に言ってしまいますと、誠に配慮に欠けるものとなり、当然にご批判もあるかとは存じますので、下記ウィキペディアの説明( http://ja.wikipedia.org/wiki/パーソナリティ障害 )における概要にございますように、治療とコミュニケーションに役立てるための一つの位置付けであるとして、前向きに捉えて、改善へ向けて積極的に取り組むことが望まれるのではないかと存じております。

また、障がいの有無に関係なく、同じく概要に書かれていますように、100人いれば100通りの色々な問題があるというのは、誠にその通りであり、私たちの心は非常に複雑かつ繊細、思うようにはなかなかならないものでございます。

皆一様に、生きていく上で色々な悩み苦しみがあるかと存じます。それをこれは「障がい」、これは「障がいではない」と決めつけてしまうのではなくて、その心のありようを改善させて、成長させていくことにより、悩み苦しみを解決させて、より良く幸せに過ごすことができるようにとして調えていくことが大切なのではないかと存じております。その一つとして、心の問題を扱う仏教は大いに役立つのではないかと手前味噌ながらにもその学びを推奨させて頂く次第でございます。

是非、仏教の学びも進めて頂きまして、たま様の悩み苦しみが少しでも無くなって参りますことを心から祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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