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自分がわからない

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有り難し有り難し 32

私は恵まれているはずなのに死にたいと常に思っています。
愛してくれる家族、恋人がいて大好きな仕事をして趣味もあり趣味を楽しめる金銭の余裕もあります。
ですが常に死にたいと思っています。
残された人が悲しむかもしれないと思うようにして実行をギリギリとどまってますがそれもいつまでもつかわかりません。
自分がわかりません。
自分の発言も行動も存在も無駄で無意味で価値の無い、必要性の無いものだと思っています。
上に書いた現状の自分も生きる意味が無くならないように、そう思い込むようにしているだけなのかもしれません
何が嘘で何が本当かわかりません
もう全て終わらせたいです


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

満足の方向性や主人公を間違えると死にたくなってしまう事がある

手応えの無い他人が描いた幻想の幸せビジョン。
私は昔そういう絵に描いたような幸せビジョンを追いかけていた時期もありますが、手応えアラジンなのです。
ドラマや映画のエンディングシーンに描かれるようなハッピーエンドは映画やドラマだけにそこで「完結」する。ところが現実ちゃんは違います。その後も続く。
理想の男性、白馬の王子様と結婚したと思ってもその離婚やら浮気やらで地獄を見た人がこのhasunohaサイトにも集まっています。
だからと言って、それもエンディングでもアラジンなのです。
人間は「決めている」と知れ。
そうだと思いこんで「そうだ」と思うから決められるだけなのです。
思い方でトリミングして、評価してデッドエンド、デッド評価、DISりペイント。それをやっているのはどこか。
・あたしはこの先もダメだ、
・人生「つまらない」。
・死んでもいいかなぁ。
・超つまらねー。
そういう脳内評価をする「人」をアプリとして起動させていないか。
そいつがアタシの主人公だと思いこまされていないか。
それ、ナリスマシです。
脳内パラサイトです。
本当の主人公を知らんのでしょう。
禅語でも「主人公」という言葉がある。
人間の脳は重い思いというタヌキ・狐に化かされる。
バカされていることも知らない。
バカされてアタシが今苦しい思いをさせられているということも知らない。
バカされているのはその思いはアタシの脳内の暖炉🔥でモクモク湧いてきた煙のようなもの。着火させているのは誰か。不完全燃焼しているのはどこか。
全部「あたし」という自分アプリが起動しているからなのです
たとえ高性能のスマホで誰のよりも高価で性能のいいスマホであっても、ゲームアプリやらSNSが起動して、それをユーザーが優先的に見ていればそのスマホはそのアプリの為だけに起動しているようなものです。
だから、その安い苦しい暗いつまらない嫌なネガティブな思いしか生み出さないクソアプリを削除・アンインストール、もしくは立ち上げないことであなたは救われる。
坐禅とはこの「あたし(私)あぷり」の起動する前の主人公に出会う道である。
誰もが自分の主人公を持っている。
今の時点でこれが主人公であると思いこまされているものではない主人公がある。
その主人公に出会う前から、難癖をつけてしまっているのです。
人は主人公を誤認すると苦しいのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼を書いたのですが多分確定前?に消してしまったようなのでもう一度書きます。
二重になってしまったらすみません。

ご回答ありがとうございます。
正直なところ、今の私には難しくてよく分からなかったです。
とりあえず理解できるようになるまでは死ねないなぁと。
ふわりと死にたくなるのでふわりと死なない理由をいただけた!というのが正直な気持ちです。
ありがとうございます

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