野良猫を放置したことを後悔
8年ほど前、家に寄り付いた野良猫が子猫を生み、里親を探しましたが見つからず、山に放しました。
その時は家では犬と猫を飼っていたのでこれ以上は保護できませんでした。いけないことと思いながらも見捨てられず、餌を与えてしまったら庭に住み着いてしまったようで、最初は人間を警戒していましたが私たちには心を開き、子猫を連れて戻ってきたのだと思います。可愛いので庭にいてくれることも嬉しく、しばらくの間見守っていました。
しかし近所の方にも迷惑になるし、これ以上子猫を産んだら良くないと思いましたがどうすることもできず悩んでいました。すると親が、野良猫がたくさん住んでいる山に放せば、生きていけるだろうと言いました。(餌をやりにくる人たちもいる山です。)
今から思えば不法遺棄になるのでやってはいけないことですが、その当時は猫のためにも私たちのためにもそうするしかないと思いました。
捕まえて車で連れて行きましたが、捕まえる時に逃げ惑った猫の姿があまりに可哀想で、ごめんねと泣きながら連れて行きました。山に放した途端猫たちは怯えて母猫と子猫はバラバラに走って逃げました。母と子猫は一緒に暮らせると思っていた私は、初めて酷いことをしてしまった、これでは生きられないかもしれないと思いました。
人間に裏切られた猫の気持ちや、怖くて寒くて寂しい思いをした子猫たちの気持ちを考えると今でも自分を強く責めてしまいます。 もっとよく考えて懸命な行動をすればよかった、猫を見殺しにしてしまったも同然だと後悔の念に苛まれています。
家族みんな動物が大好きですが動物を愛する資格もないと思います。こんな私はこれからどのような思いでどんな償いをして生きていけばいいでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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それが、あなたの精一杯だったのでしょう。
であれば、致し方ないと思います。
我がお寺には池があって、2月には蛙が卵を産みに来ます。それこそ底面いっぱいが真っ黒になるほどのオタマジャクシが孵ります。
よく「これ、全部が蛙になったらすごいですね」と言われるのですが、残念ながらと言うべきか、そんなことはありません。暫く見ているだけでも、一匹、また一匹と排水溝に流れていきます。大きな魚に狙われることもあるでしょう。近所の子どもが遊びで捕まえ、殺してしまったこともありました。
私は仏飯(お供え)のおさがりを池に撒きますが、それとて「餌をやっている」という程ではありません。排水溝にネットを張ったこともありましたが、すぐに藻が詰まって水が溢れてしまいました。流れていくオタマを見ながら、「ああ、どうなるのだろう、どうなるのだろう」と毎年心を痛めます。
猫とオタマジャクシ、ともに生きているのですから命があることに変わりはありませんね。あなたは、その猫ちゃん一家に、その時できるだけの事はしたのでしょう?であれば、それで致し方なしとすべきです。あとは彼女らの生きる力次第です。
あなたが、その事を忘れずにいる。それが貴いと私は思いますね。そして、私達は日々、いろんな生き物の命をいただいて生きています。生かされていると言ってよい。それをあなたは気づいているはずです。
それを知り、あなたのご縁の及ぶ範囲で生き物に優しくする。これからです。私だって、誰かが地面に落としたオタマジャクシを見つければ、すぐに拾い上げて池に戻しますよ。「できうるなら、長生きしろよ」と思いながら。
質問者からのお礼
佐藤さん
ありがたいお言葉をいただきありがとうございました。
その猫たちにはもう償いはできないという、どうしようもない後悔もまた自分を苦しめていました。でもこれから出会う生き物に償うことで罪滅ぼし、改心ができるのなら、このことを忘れないでいることにも意味があるのだと思います。
私よりも弱い生き物である彼女たちの言葉を聞くことは叶いませんが、命の重さと、自分が生きていることのありがたさを教えてもらったと思いました。自分の過ちを本当の意味で未来に向けて学びに変えることがようやくできそうです。ありがとうございました。