何故、分骨などあるのでしょうか
久々にお世話になります。まだまだ、整理がついていない中、色々と先を考えないといけないと思う自分もいます。
お墓をきちんと作ってあげた方がもっと楽になれるかなーと…。
今、家にあります。お墓は?と子ども達に聞かれる事もありますが、まだそばにおいておきたい自分の気持ちが先にいます。
前に…分骨もあるのよ、、という姑の意見をとおさないといけませんか… ︎。
私は、旦那を二つに分ける…って事は絶対したくないです‼︎意味はあるんですか?
旦那が亡くなった後の、納骨を決めないといけないのですが…旦那のお父さんの納骨は、県外にあります。ですが、旦那の納骨は、自分達の近くにたてたいと思っています。
それを姑に話すと、きっと、お父さんのとこに‼︎と言われそうです。
でも、子ども達もすぐに行ける近くがいい!と言ってますし、私もそれをするつもりです‼︎
姑は、お父さんのいる納骨の場所から離れてるものの、県内です。
まだ姑が亡くなってもないのに、お父さんも旦那と同じとこにする!って話しても絶対反対されます。
権限は私ですよね?
どうしたらうまくいくか…
アドバイスお願いします!
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手を合わせる場・対象としての「象徴」
ご相談拝読しました。納骨の方法・お墓の場所等についてお悩みですね。
分骨についてですが、遡るとお釈迦様のご遺骨も分骨されています。お釈迦様を慕った八つの国の王がやはりご遺骨の分与を求めたのですね。
さて、矛盾するようですが、私的には納骨の意義というのは、お骨という「形あるものへの執著を離れる」=「気持ちの整理・区切りとする」ことだと思います。
この肉体のある命は仏教では迷いの象徴です。亡き人はもうそうした迷いの身を離れていった存在です。
有名な歌でも「お墓に私はいません」的な歌詞がありますが、上記のような意味として受け取れるでしょう。
では、お墓や・お骨は何かということになりますが、これもやはり象徴なのです。生きている私たちは形あるものしか認識できません。姿形を超えていった亡き人ではありますが、そうすると残されて生きている私たちがどこに向かって手を合わせていいかも分からないので、お墓やお仏壇がその象徴としての役割を果たしてくれるのです。
形あるものへの執著を何らかの形に向かって手を合わせる中で離れているというのは矛盾する様ですが、そうするしかできないのが人間の心理構造でしょう。
ですから大切な人のお骨が誰かと争う手段の様になってしまうのは本末転倒です。あなたにとってもご主人が大切な人であるように、お義母様にとってもやはりそうなのです。
お墓の維持管理やお参りの利便性などの現実面を考えるといたずらに分骨することをオススメはできませんが、よくお話し合って、それぞれが象徴として手をわせる場所を持てるようにすることは大切なことでありましょう。
納骨の遅い・早いや場所等によって亡き人が成仏できないとか、悪い事があるとか、分骨によって亡き人も二つに分かれてしまうとかそういうことはありません。
納骨によって気持ちの区切りとなることは大いにありますが、区切りの兆しも見えていない内に納骨してしまうことで逆に気持ち的にも現実的にも問題が生じてしまうこともあり得ます。
「そばにおいておきたい」というお気持ちは当然のものですが、それは「お骨=亡き人」というところをまだ超えていけない表れでもあります。
もう少し時間をかけて考えたり話し合ってもいいかもですね。こういう時お世話になる特定のお寺さんがいるのが一番良いのですが…。ハスノハでもかまいませんのでまたご相談ください。